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全部きみのせい

全部きみのせい

 付き合っていた女の子に「他に好きな人ができちゃったから、ごめんね」と言われて振られた場合に、彼女が好きになったという男に対して良い感情を持てないのは、人間である以上仕方がないことだと思う。しかもそれがこの高校に入学してからの二年三か月の間に三度もあって、その「好きな人」というのが全部同じ野郎とくれば、むしろそいつを嫌いになるなという方が無理だ。
 さらに言えば、俺は奴がもともと苦手だった。ほとんどの教科において成績トップで、強豪として名高いうちの高校のテニス部の全国大会出場メンバーで、その上街を歩けばスカウトに当たるとまで言われる見てくれで、更には性格もいいらしいという噂。
 ―――そんな弱点のない人間なんて到底信用できない。絶対何か重大な欠点を隠しているに決まってる。
 嫉妬と言われようが、八つ当たりと言われようが、俺はこの2年間、一度も話したことすらないそいつに対して憎悪の炎を燃やしていた。そこにこれだ。
「なぁ後藤、聞いた? 大河内と関、もう別れたらしいぜ。また大河内が振ったんだって」
「な……っ」
 ニヤニヤ笑いを浮かべた悪友の報告を聞いて、俺は思わず絶句した。
「今回は早かったなー。ここまでくると、もはやお前への嫌がらせとしか―――って、後藤? どこ行くんだ?」
「ちょっとE組行ってくる。あの野郎、もう許せねえ……!」
堪忍袋の緒が切れるとはこのことだった。今回はさすがに、何かひとこと言ってやらないと気が済まない。俺は足早に奴の教室へ向かった。
「大河内七緒! って、テメーか! ちょっと顔貸せ」
「―――あ」
 驚いたように俺を見た大河内を有無を言わさず誰もいない特別教室に引っ張り込んで、俺は改めて奴を睨み付けた。大河内の方が身長が高いから見下ろされるような格好になる。そのせいでやや迫力に欠けるのは、仕方がないとはいえ、そこにますます腹が立つ。
「大河内、テメー自分が何したか―――」
「後藤、俺の名前知ってたんだ」
 大河内の第一声がそんな気の抜けたものだったので、俺はちょっと気を削がれた。
「知ってるに決まってんだろ! お前みたいな目立つ奴、知らないわけが……」
「よかった」
 ここで心底嬉しそうににっこり微笑む、その神経が分からない。何なんだこいつは。自分の立場理解してんのか。
「どういうつもりなんだよ、人の彼女を3人も連続で奪っといて、全員付き合ったとたんにポイってのは!?」
 俺の歴代三人の彼女たちが全員こいつにとられたのは、まあ許せないがいったん置いておく。一人目二人目とそれぞれ一、二か月で別れたのも、思い出すとはらわたが煮えくり返るがとりあえず置いておいてやろう。だが。
「一週間はないだろ、一週間は! 向こうに問題があったんだとしても、せめてひと月は我慢してやれよ。じゃなきゃお互いのことなんか何もわかんねーだろーが!」
 大河内は目をみはって俺を見た。
「わざわざそれを言いに?」
「わざわざってなんだよ、だいたいなあ、お前には分かんなかったのかもしれねーけど、関はすげー繊細な子で、めっちゃいい子でっ! 今回のことでどんだけ傷付いてるか、考えただけでも……!」
 大河内は目を伏せた。どうやらここまで来てようやく緊張し始めたらしく―――まあ、急に怒鳴り込まれたんだから本来それが当たり前のはずだが―――頬から耳、首筋にかけて僅かに赤く染まる。
 ―――やっと、ちょっとは俺の言葉が堪えたか。俺は今だとばかりに畳みかけた。
「あのなあ、テメーみてーな恵まれ過ぎた奴には一生わかんねーかもしれねーけど、好きになった相手に突然よくわからない振られ方したらどれだけ傷つくかってことをだな……!」
「―――わかるよ」
 突然そうきっぱりと言って、大河内は真っ直ぐに俺の目を見た。
「ああ?」
「好きな人に振り向いてもらえない辛さなら、俺だって」
「う、嘘つけ」
 真っ直ぐに俺を見たまま妙な表情をするもんだから、なんとなく気を飲まれて黙りそうになって、俺は慌てて気を取り直した。そう、とにかくひとこと言ってやらないと。
「とにかく、俺が言いたいのは、俺はお前が」
「―――だって、俺は、きみが」
「気に食わねぇんだよ!」
「―――好きだから」
「…………は?」
 重ねるように言われた真逆の言葉。俺はぴたりと固まった。
「い、いま、何て……?」
「俺はただ、後藤くんが好きなだけなんだ」
「……お前って、ホモだったの」
 たぶんね、と大河内は言った。
「いや、だけどお前、幸田とも三好とも関とも、付き合ってたんだろ?」
 その三人が、「大河内を好きになった」という理由で俺を振った元カノたちだ。大河内は目を伏せた。
「俺はただ、君が好きで……君の彼女なら君のこと良く知ってるだろうから、色々話を聞きたいと思って近づいて、そうしているうちに―――彼女たちが君のことより俺の方を好きになってしまったみたいで」
 そう言って、頭を下げた。
「ごめん」
 おそらく事実とはいえかなり腹立たしいことを言われている気はするのだが、驚きすぎて怒りすらもう湧いてこなかった。大河内は淡々と言葉を続ける。
「罪悪感もあったけど、女の子でも、君が好きだった人となら上手くいくかもって思ったんだ。―――結局無理だったけど」
「意味分かんねえ……」
「うん」
「あのさ、大河内、悪いけど俺は、女が好きなんだ。だからその……そういうのは」
「それはわかってる、だけど」
 大河内は妙に真剣な目でこちらを見た。
「友達になってくれるだけでいいんだ。付き合ってほしいとは言わない」
もうバレちゃった以上、ここで話が終わってしまったら、きっと君とはもう二度と話せないと思うんだ、と大河内は思いつめたような顔で言った。だから今がこういう話をする最初で最後のチャンスだ、と。
「君に迷惑はかけないから」
俺は慌てて首を振った。
「いや、無理無理無理。……もういい、わかった、この際彼女を取られた恨みは忘れてやってもいい。だから、俺はお前が今言ったことは聞かなかったことにするから、お前も俺なんかに血迷ったことはさっさと忘れて、お互いもう関わらないようにするのがいちばん―――」
俺の言葉が終わらないうちに、大河内がぽつりと言った。
「じゃないと俺、また君の彼女になった人にちょっかいかけちゃうかもしれない」
 ん? それってどういう……。
「……まさかと思うけど、俺、いま脅迫されてる……?」
「違うよ。……でも、俺をそばに置いてくれれば、きみに彼女がいても何もしないって約束できる」
「な……」
あいつがそれを言った表情はひどく真剣で、口調は真摯そのものだった。だけど、内容はどこからどう見ても脅しでしかない。
―――こいつ、しおらしいわりに性質が悪すぎる。
どこが才色兼備で性格も良くてだよ。めちゃくちゃ危ない奴じゃねーか。
 いまや、ここに入って来た時とは全然違う立場で俺たちは向かい合っていた。俺はただひたすら困惑し、大河内はしおらしく俺の言葉を待っている。
 でも俺は、こいつのせいで高校で付き合った女子三人から早々に振られたのだ。恋人らしい思い出と言えば手をつないだことくらい。まだキスすら出来ていない。
高校生活も残り9か月。このままじゃ終われない。ひとつくらい甘酸っぱい思い出を作りたい。
「……お前が、もう絶対に邪魔しないって言うんなら……」
 かなりの逡巡を経て俺が渋々そう言うと、大河内は顔を輝かせた。
「ありがとう」

「暑い……購買行くのもめんどくせー」
「俺行ってくるよ。何がいい?」
「うー……そーだなー、みかんゼリーと、カレーパンと……」
 昼休み、机に突っ伏していると、いつもの通り大河内が来た。
「あれ、大河内くん。最近よくうちのクラス来てるね」
「大河内くんと後藤くんって、そんなに仲良かったっけ?」
 通りかかった女子数人が驚いたように話しかけてくる。
「仲良く、っていうか、こいつが勝手についてくるだけ」
「え……、そうなの?」
「うん」
俺の極めて素っ気ない言葉にも、大河内はためらいなく頷く。
「へ、へー……」
「大河内くんって、そういう感じの人だったっけ?」
 もうちょっと、孤高の人ってイメージだったんだけどな。女子たちは困惑したようにひそひそと話しながら離れていった。
 ―――こうやって嫌な思いをさせ続ければ、そのうち俺に執着するのもやめるだろ。
それは一応、俺の計算でもあった。でも女子たちのあからさまなドン引きも、大河内は全然気にならないようだったから、効果のほどは疑わしい。
しかしあの目立つ大河内が『友人』として、しかも、どうみても俺を慕う態度で俺について来るというのは、あながち悪い気分でもなかった。
そのうちようやく梅雨が明けて、夏―――いわば恋愛のハイシーズン―――が来て、俺にもまた友達以上彼女未満の女の子ができた。明るくて可愛くて、一緒にいると楽しい、いい子だ。約束通り、大河内はあからさまな邪魔などはしてこなかった。
三年になるともう部活もないから、一緒に勉強するという口実で放課後一緒に過ごしたり、土日も誘い合って学校の自習室へ来たりして手ごたえも上々で、付き合うまであとほんの一押し、あとは夏祭りに誘って告白するか、それとも花火か―――というところまで来ていた。
そんなある放課後、不意に彼女が、ちょうどそこにいた大河内に―――なんでいつもあいつがいつも「気づくとそこにいる」のかという問題はあるのだが―――ふと思いついたように言った。
「そういえばさ、ずっと思ってたんだけど、大河内くんて彼女いないの? かっこいいのに」
嫌な予感がした。
「そんなことないよ。でもありがとう。伊藤さんも可愛いよ」
「えー、ほんと? ありがとう」
 こいつ、どの口で……! 睨むと、涼しい顔と目が合った。普段ならそういうこと絶対言わないくせに。
 またこいつに取られるかもしれない。焦りで、思わず口をはさんでいた。
「こいつは女嫌いだから、『彼女』は絶対に作らないんだって」
これくらいならいいだろ。
「でも前は、ちょっとの間だけど、彼女いたじゃん」
 彼女は不服そうに言う。まあ、そうなるか……。
「えーと、その時は大丈夫だったけど、今は女嫌いなんだよ。なっ」
「ほんとにー? 好きな人もいないの?」
「いや、まあ、そういうプライベートな話はさ……」
「いるよ」
「えっ、嘘……」
 彼女はショックを受けた様子で、口を押さえて固まった。
「えー、誰? 絶対言わないから教えて!」
「ま、まーまー、そういう話は……」
 一生懸命口を挟もうとする俺を、しかし彼女はあっさりと無視した。
「あれ、でもじゃあ、女嫌いっていうのは? やっぱデマ?」
「俺の好きな相手が男だから」
「えっ」
彼女は再び口を押えて固まった。そして眉を顰めた。
「うそ……気持ち悪……」
―――いくら水を向けたのが俺だからって、自分からバラすなんて馬鹿か。
 俺のぎょっとした顔も気にも留めず、大河内は淡々と言った。
「だから、もし君が後藤と俺を天秤にかけてるなら、その程度の気持ちなら、付き合うのなんかやめた方がいい」

「お前のせいで振られちまったじゃねーか!」
 あの日から、彼女はあからさまに俺と大河内を避けるようになった。
―――全部こいつのせいだ。邪魔はしないって言ったくせに。
 しかし、当の大河内は涼しい顔で俺を振り返った。
「俺のせいじゃない、それまでの縁だっただけだよ。きみだって、彼女から予備みたいに扱われていたことに気付いてなかったわけじゃないだろ」
「だけどっ、あんなぶち壊すようなこと言わずに、ちょっとは協力してくれたって……!」
「後藤は見る目がない。今までだってそうだった。きみはあの子たちを悪く言わないし、それはきみのいいところだけど、俺に言わせればきみの言う『天真爛漫』は『傲慢』で、『繊細』は『気難しさ』で、『明るい』は『お喋り』だ」
「うるせー! 人の彼女のこと悪く言うと―――」
 大河内はひどく冷たい目で俺を見た。
「きみだって分かってたんじゃないのか。俺がちょっかいを出さなくたって、彼女たちがどうせすぐに離れていっただろうってこと」
「てめー……」
俺は心底腹が立った。その場で殴りかからなかったのが不思議なほどだ。
「俺もう容赦しないかんな! 皆にお前がホモだって言いふらしてやる!」
「好きにすればいい」

―――そうして実際、それは皆の知るところになった。
ただ、あいつには言いふらすと宣言したものの、結局俺は誰にも何も言わなかったから、彼女―――伊藤さんが広めたのだろう。
人でも物でも、上にあればあっただけ、落ち方も激しい。簡単に言えば、あいつはそれから卒業までの半年間、女子からは遠巻きにされ、男どもからはわかりやすい虐めを受けることになった。男の虐めにはたぶん、それまでの嫉妬の鬱憤晴らしもあったと思う。
それは、普通の人間なら相当辛い時間だったはずだ。少なくとも同じことをされたのが俺なら、早々に不登校になっていた自信がある。でもあいつの整った涼しい顔は、下駄箱に突っ込まれた大量のホモ漫画の濡れ場の切れ端を見ても、『キモイ』やら『ホモ死ね』やら悪口の限りを尽くした机の落書きを見ても、一度たりとも崩れなかった。
そのことでいちばん良く覚えているのは、秋の終わり頃、長い冬が始まる頃のことだ。放課後、俺が委員会の仕事を終えて教室に戻って来ると、クラスの男が数人で騒いでいた。
「うっわ、あいつらマジクズだわー」
「それにしても、下駄箱ラブレターってさあ、いつの時代だよ。いまどきそんなもんに引っかかる奴いる?」
「ほんと、よくやるよなぁ」
「何してんだ?」
 俺が声を掛けると、笑っていた奴はあっと驚いたような顔をして気まずそうに黙った。
「あー、後藤か。いやー、タイミング悪いな……」
「何が?」
 良くない予感がして、俺は詰め寄った。
「ちゃんと言えよ」
「なんかさ、E組の一部の男が今日、お前の名前で手紙書いて呼び出すんだって、大河内を」
「……は?」
「ほら、今あいつとちゃんと話すのお前だけじゃん。だから、あいつの好きな男っていうのが、お前じゃないかって噂になってて」
「手紙で呼び出して、ほんとに来たら面白いよなって」
「な……」
「怒んなって、後藤、ちょっとしたイタズラだよ」
「そうそう、ドッキリだよ」
「ふっざけんな!」
 思わずいちばん近くにいた奴のシャツの首元を掴んだ。
「呼び出した場所は?」
「た、体育館の裏……」
 走って行くと、ちょうど人だかりが出来ていた。輪の向こう、一人ぽつんと立っている長身は大河内に間違いない。
「ほんとに来た」「マジかよー」「本物だな!」興奮した声と甲高い馬鹿笑いが聞こえてきて、思わず唇を噛む。間に合えば止めようと思ったが、どうやら無駄足だ。でもこのまま帰る気はなかった。
「あれ、後藤? なんで……」
「テメーら、このクソ野郎!」
 首謀者らしい、中心にいたE組の奴に掴み掛かろうとしたところを慌てた周りに止められて、俺は夢中で手を振り回した。
「人のことなんだと思って……!」
「あー、もうバレたのか。いや、勝手に名前使ったのは悪かったって。でもその方が面白いと思ってさ」
「あのなぁ―――」
「だって、後藤、お前も『被害者』なんだからさ」
「そうそう、ホモに彼女取られたんだろ、もっと怒っていいんだって」
「それとこれとは話が別だろ! 俺の問題に他人が首を突っ込むなっつってんだよ!」
 とにかく殴りかかろうと闇雲に突進した俺は、しかし、あっさりと躱された。自分で言うのも情けない話だが、俺は喧嘩っ早いわりに、喧嘩が強くないのだ。
勢い余って頭から生け垣に突っ込み、バランスを崩して地面に思い切り転がった。そんなこんなで、俺が起き上がる頃には、奴らはもう笑い声だけを残してさっさとその場を後にしていた。
「っ痛……」
 追いかけようとして、へたり込む。
「後藤、大丈夫? 血が出てる」
 怒りはまだ収まらなかった。近付いて来た大河内に向かって俺は食ってかかった。
「お前あほか! 何で来たんだよ、まさかそんなもん、信じたわけじゃないんだろ!?」
「まあ……」
「ならもっと怒れよ! 俺ならあんな奴ら全員ボコボコにして、もう二度とこんな舐めた真似出来ないように―――」
 大河内は俺が怒っているのを、まるで不思議なものでも見るように見た。
「字が違うのはすぐに分かったけど、『後藤』としか書いてなかったし、学年も書いてなかったから、他の人かもしれない。何にせよ、その人は、俺がここに来ることを望んでるみたいだったから来ただけだ」
「はあ? お前、どんだけおめでたい頭して……」
「俺がここに来て人に笑われたところで無くなるものなんて何もないけど、その人もそうとは限らないだろ」
「……何だそれ……」
「誰であっても、どういう意図があったとしても、初めから嘘だって決めつけて誰かを傷つけるよりは、こっちのがいい」
悪戯で良かったんだよ、と大河内はいつもと変わらない顔で言って、俺に手を差し出した。
俺はその手を振り払って立ち上がった。
もう自分が誰に対して何を怒っているのかもわからなかった。
E組の男どもの悪質な悪ふざけに対する怒りなのか、一緒になって笑い者にされた自分への複雑な怒りなのか、自分の心を土足で踏みにじろうとした奴らの馬鹿笑いの渦の中でも涼しい顔で存在しない他人の感情を慮る大河内の馬鹿さ加減に対しての怒りなのか―――。
何もかも分からなくなって、ただ、一つだけ確かなことは、俺には大河内の、何をされても堪えない顔がどうにも腹立たしくて仕方がないということだった。そして、ここまでくると、ただ俺のそばから追い払うだけじゃもう飽き足りないということも。

―――こいつの、取り澄ました顔が崩れるところが見たい。

冬が始まって受験シーズンが本格化すると、皆自分のことで手一杯になる。何をしても堪えない人間にエネルギーをかけ続けるのに疲弊したのか虐めは尻すぼみになり、やがて収束した。
年明けの自由登校になった三年の教室はどこもガラガラだ。来ても来なくてもいいと言われてわざわざ登校するような物好きは少ない。ただ、俺のような一部の物好きにとっては、人のいない教室は家にいるよりも何かと集中できる。
「うーん、やっぱネックは家賃と光熱費だよなー……」
 願書と各種学生用マンションの資料を並べて何度目かのため息をついたところで、
「後藤は上京するの?」
いつの間にか後ろに来ていた大河内に声を掛けられた。こいつも物好きの類らしい。
「何勝手に人の願書見てんだよ」
「だったら俺もする。それで、同じところに住みたい」
「な……」
「お願いします」
 俺の言葉を無視して、大河内は前に回り込んで身を乗り出す。本当に懲りない奴だな、と俺は呆れた。
「嫌だね」
「絶対? どうしても?」
「お前しつこい」
 嫌だって言ってるだろ、と言おうとして顔を上げて、こちらを見ていた大河内と目が合って―――ふと、気が変わった。
「……お前が俺と同じ大学に行くならいいよ」
あいつの方が俺なんかよりずっと模試の全国順位が上なのも、家が金持ちなのも知っていた。大学にしても住む家にしてもレベルを下げてまで追いかけて来ることはないはずで。
「わかった」
一切の間を開けず、大河内は頷いた。

「後藤、追加の本棚、ここでいい?」
「あー……うん」
そしてまた巡ってきた春、最寄り駅徒歩二十分、オートロックはおろかエレベーターすらない築四十年の四階建てアパートの最上階の角部屋で、俺はこうして大河内が本棚を設置するのをぼんやりと眺めている。
駅から遠くてエレベーターもないかわりに南西角部屋の2DKで家具家電付きのその部屋は大河内が見つけてきたものだ。予算の制限―――主に俺の―――からいえばかなり条件の良い部類。契約と二人分の引っ越しは、合格発表の翌日には大河内が一人で段取りをつけていた。
「これから教科書とか本が増えたら、もとからある本棚だけじゃ足りないし、共用スペースにも一つくらいあった方がいいだろ。後藤も好きに使っていいから」
「……ああ」
―――まさか本気だったとは。
通算何十回目かのその言葉を飲み込んで、俺は物の少ないその部屋を見回す。玄関側にトイレと風呂、今いる8畳のダイニングキッチンが共用スペースで、奥の左側のドアを入った洋室が俺の部屋、右側が大河内の部屋。出窓は夕日の眩しい西向きで、今は春の夕暮れの太陽のオレンジ色が部屋中を満たしていた。
家賃や光熱費を誰かと折半すると一人暮らしよりもだいぶ安く済むというのは、実際、貧乏学生の俺には助かった。考えなしなうちの親なんかは『大河内さんのところの息子さんとなら安心』だなんて喜んでいたくらいだ。でも、本来親の仕送りだけでオートロック付きの駅近新築マンションに住めるような奴が、何をとち狂って俺の貧乏学生生活に付き合おうというのか。
「一応言っておくけど、変な期待すんなよ」
「うん」
 何度目かの念押しにも、大河内は素直に頷く。
「お前と俺はただの同居人だからスペースも別々だし、友達みたいに一緒に飯食ったりもしない」
「うん」
「共用のスペースは、俺が使いたいときはお前がどく」
「うん」
 こいつの返事はいつも暖簾に腕押しなのだ。
「ほんとにわかってんだろうな」
「大丈夫だって」
 大河内は顔を上げた。いつもの涼しいポーカーフェイス。
「心配しなくても、何も迷惑はかけないよ。それに、無理を言ったのは俺だから、家のことは全部俺がやるし」
「全部って?」
「料理に、掃除に、洗濯―――は、きみが嫌ならきみの分には触らないけど、その他諸々。俺は慣れてるし、割と好きだから」
「だけど、さっきも言ったけど飯は……」
「俺は自分の分のついでに作るだけ。食べるタイミングも、食べるかどうかも、君が好きにすればいい」
そんなうまい話があるだろうか。
 やっぱ何か変なこと考えてんじゃないのか。―――俺は絶対に、警戒は怠らないからな。

「後藤、そんなとこでうたた寝しないで、寝るならちゃんとベッドに行った方がいい」
 大河内の声。テレビの音に混じって水音がしていた。台所で洗い物をしているらしい。
「うー……めんどくさい……」
 共用スペースのソファは大河内が持ってきた物だが、ひどく座り心地がよくて、バイトから帰って遅い夕飯を済ませたあとにテレビをつけたりすると、しばらくは立ち上がれなくなる。
「バイトで疲れてんのは分かるけど、そんなところで寝たらもっと疲れる」
「わかってるよー……」
 ふらふらと上半身を起こした。
 こんな状態で言うのもなんだが、最初は警戒していたのだ、本当に。でも人間は慣れ次第でサバンナにだって住める生き物だ。朝と夜の飲食店バイト2つのかけもちと勉強の両立は思ったよりもハードだったし、大河内は本当に何もしてこなかったので―――そういう気配すら一切見せることはなかったので―――いつの間にか警戒のけの字もなくなっていた。
 くぁー、と欠伸をして、また少しぼんやりしていると、
「歩けないなら連れて行こうか?」
「いや、いい!」
 慌てて立ち上がって、ささっと自分の部屋に戻った。後ろからやや笑い含みの「寝るなら、シャツくらい着替えないと皺になるよ」という声が追いかけてきた。
 扉を閉めて着替えながら、ふと、もしかしてさっきのはあいつなりの冗談だったんだろうか、と思った。ほとんどそういう種類の言動のない奴だから、確証はないけれど。
 あの初対面から一年と少し経つが、俺は大河内に関して、噂で聞いたこと以外ほとんど何も知らない。こうして一緒に住むようになってもそれはあまり変わらなかった。
 唯一、最近発見した新事実は、大河内が本当に家事が好きらしいということ。俺と違ってバイトもせず人付き合いも最低限な大河内は学校以外のほとんどを家で過ごしていて、食事はいつも手作りしていたし、洗濯も毎日二人分―――最初は自分の分は自分でやっていたものの、バイトで忙しくして溜めているうちにあいつが当然のようにやるようになっていた―――していて、俺が何もしなくても共用スペースはいつでも綺麗に保たれていた。
 そして、意外なことには、あいつの作る飯は美味いのだった。別にいちいち凝っているとかそういうことじゃない。ごく普通の家庭料理が普通に美味くて、食べたい物の話をするわけでもないのに―――というか、ほとんど会話らしい会話もないのに、無意識にこれが食べたいと思っていたようなものがたいていその通りに冷蔵庫に用意されていた。前にあいつが言った通り毎日。俺が食べても、食べなくても。

 高校と違って大学は規模がでかいので、商学部の俺が法学部の大河内を学校で見かけることはほとんどない。家でも特に話をするわけでもないし、俺はバイトやらサークル付き合いやらで外にいることが多かった。
サークルはいわゆるインカレというやつで、色んな大学からメンバーが集まっている。表向きは色んな分野の資格取得のための勉強サークルということになっているが、実際は月に一回、情報交換会という名の体のいい合コンをやるのがメインのゆるめのサークルで、もちろん俺の目的もそっちにあった。
 ある日バイトから早めに帰ってその夜の『情報交換会』のために勝負服に着替えて出かけようとしていると、同じくどこかに出かけようとしている大河内と一緒になった。
「珍しいな。どっか行くのか」
「今夜はサークルのコンパがあるから」
「へえ、お前がサークル? どこ?」
意外な答えに驚いてサークル名を聞いた俺は、大河内の言った名前を聞いて更にびっくりした。というより、呆れた。
「それ俺の入ってるとこじゃんか! さてはお前……」
 大河内は首をかしげる。
「資格試験の情報収集だよ。興味があれば誰でも入っていいって聞いた。規模の大きいところだし、友達とかぶるのだって普通だろ」
「だけどお前の場合……絶対俺のサークルを勝手に調べて……」
 大河内はふっと笑った。
「自意識過剰」
 こいつ……。最近大人しくしてるから油断してた。
「てゆーかお前、テニスはどうしたんだよ」
「中高は部活動が強制だったからやってただけ。大学はもういい」
その素っ気ない返事に思わず舌打ちした。それで全国とか行っちゃうもんかね、普通。
今に始まったことじゃないが、こいつ、神様にえこひいきされすぎだろ。

「へぇ、二人は同じ高校だったんだー。二人ともかっこいいから、女の子にもてたでしょ」
「そんなことないって」
 お世辞に笑って返しながら、来て良かった、と心の中でガッツポーズした。今夜席が近くになった女子大グループの女の子たちは正直かなり可愛い。
「嘘だぁ」
「ねー」
 微笑み合う彼女たちにつられて微笑んだとき、女子の一人が、「それで、大河内くんって、彼女いるの?」と言った。
また大河内か、と心の中で舌打ちした。ていうかこいつ、勝手に隣に座りやがって。合コンでこいつの隣とか罰ゲームでしかないじゃんか。
「気になる、気になる」
 もう一人の子もにこにこして頷く。くそー、あの子、吉井ゆうなちゃん、俺が狙ってたのに、結局あいつか。大学になってもこれが続くのか。
「水田さんだって吉井さんだってもてたでしょ。可愛いし」
「えーやだ、嬉しい」
 思い切り睨んでやろうとして目が合って、分かった。いつかもこんなことがあったけど、こいつ絶対、わかっててやってる。普段そんなこと絶対言わないくせに。
「でも、お世辞で誤魔化そうとしたってだめだよ、大河内くん。それで、彼女は?」
「いないよ」
「へー、じゃあ、好きな人は?」
 俺は大河内が口を開く前に割って入った。何を言い出すかわからない。
「こいつは、女の子と付き合う気はないんだって。気にするだけ無駄。騙されない方がいいよ」
「えー、ほんと? なんで?」
「さあね、勉強にしか興味ないんじゃない。そんなことよりさ、俺は全然―――」
「じゃあさ、もしかして、女子じゃなかったりして、恋愛対象」
不意打ちで飛んできた言葉にぎょっとして声のした方を見ると、ゆうなちゃんの隣に座っている目鼻立ちのはっきりした男と目が合った。確か、自己紹介のときに有名な大学の名前を言って、そこの3年生だと名乗った奴。
呆気に取られているとにこりと微笑まれて、慌てて目を逸らした。何だあの人。
「もー羽田野(はたの)先輩ってば、新入生を困らせないでくださいよ」
ゆうなちゃんが笑って流そうとしてくれたにもかかわらず、馬鹿正直な大河内は既にあっさりと頷いていた。
「……あ、あれ、ホントだった?」
 ゆうなちゃんはびっくりしたように固まっている。
「じゃあ、ゲイってこと?」
「そう」
―――本当にこいつは、嘘をつけとまでは言わないが、身を守ろうという意識がないのか。俺は頭を抱えた。きっとこの瞬間を境に、前のめりだった女の子は一気に引いていき噂だけが広がって、またもやこいつにとって針の筵のような学生生活が始まる―――それが、その一瞬、俺の頭によぎった予想だったから。
 でも、大学生になるということは、都会に出るということは、肩書や住所や勉強内容だけじゃなく、もっと色々なことが変わるらしい。
「なんだ、そっかぁー」
「それは結構残念……」
「ちょっと先輩、乙女の恋路を邪魔するのやめてくださいよ」
「邪魔じゃない、親切心だよ。先に知っておいた方が後で傷つかなくて済むだろうっていう」
「先輩はいつもひとこと多いんですよ」
「でも事実だよ」
「そういう問題じゃないです、前だって……」
 呆気にとられている俺の前で何事もなかったかのように会話は続き、やがて自然な流れで別の話題に移って行った。
俺はただ唖然としていた。地元では「こいつホモだよ」って言われればその瞬間から、女も男もあからさまな興味本位の視線をぶつけるか遠巻きにするかしかありえなかったのに。

「……それでね、そのときうちの語学の教授がね―――後藤くん? どうかした?」
「ああ、いや、大丈夫」
俺は慌てて話していた目の前の女の子に視線を戻す。吉井ゆうなちゃん。あれから小一時間経っていて、コンパもたけなわだった。何度か席の移動があってせっかくこうしてゆうなちゃんと二人で話が出来る状況になったのに全然集中できないのは、全部あの羽田野とかいう男のせいだ。奴はその後大河内の隣に席を移して、今は二人で熱心に俺の分からない法律系の資格の話をしていた。
そんな俺の視線に気付いたのか、ゆうなちゃんは無邪気に、「ああ、羽田野先輩?」と笑った。
「ちょっと変わった人だけど、学部きっての秀才なんだって。もう幾つか資格も取ってて……見た目がシュッとしてるからとっつきにくいのかなって思ったら全然そんなことなくて、意外といい人だったよ。前回もたまたま席が近かったから、ダブルスクールの予備校のこと色々教えてもらったんだ」
「いい人……?」
そうかなあ、と俺は顔をしかめた。
「秀才だか何だか知らないけど、あんな風に人の話に勝手に入って来てデリカシーのないことを言ってさ」
「ああ、それはたぶん、同じ人がいて嬉しかったんじゃない?」
「同じって?」
「先輩もゲイなんだって。前のとき言ってた。それより、さっきの話の続きだけどね……」
 ゆうなちゃんは話を続けたけれど、俺はもう全然集中できなかった。

帰り道、まだ資格の話をしている先輩と大河内の後ろをついて歩きながら、俺は同じくらいの高さにある二人の後頭部を何となく睨んでいた。
「あ、俺ちょっとコンビニ寄るんで……」
「ああ、じゃあ待ってるよ」
大河内が立ち止まると羽田野先輩も立ち止まって、コンビニに入っていく大河内を見送る。
「……JRの駅はもう過ぎましたけど」
 俺がそう声を掛けると、羽田野先輩は振り向いて、あれいたのか、という顔をした。
「僕は南北線でも帰れるから。後藤くんだっけ? きみこそ、こっち方面に住んでるの?」
 その、邪魔だとでも言いたげな言葉が何となく腹立たしい。
「俺、大河内と家が一緒なんで」
 そう言うと、先輩は目を丸くした。
「へー、流行りのルームシェア? 男同士で? でも付き合ってないんだよね?」
「違います。俺はれっきとした女好きですから」
「じゃあどうして一緒に住んでるの?」
「それは……」
 ちょっと言葉に詰まった。
「……俺のちょっとした冗談がきっかけで」
「冗談?」
「ていうか、そんなのどうでも―――」
「俺が後藤に無理を言ったんです」
戻って来た大河内が言った。別にこいつに言い訳なんかする義理はないのに。羽田野先輩は大河内と俺を見比べて、それからちょっと微笑んだ。
「そっか。……まあいいや。じゃ、本当は大河内くんと二人になったタイミングを狙って言いたかったんだけど、しょうがない」
 そう言って、大河内に向き直る。
「大河内くん、これは真面目に言うんだけど、今付き合ってる人いないなら、僕と付き合ってみる気ない? タイプなんだ、きみみたいな清楚な子」
「なっ」
男が男に告白とかアリか? こんなにあっけらかんと、しかも隣に俺がいるのに。
ぎょっとして大河内の横顔を見上げて、俺はますます面食らった。
―――こいつでも、こんな顔するんだ。
今まで何を言われても動じなかった、虐めにすらも一切の反応を示さなかったような奴が、まさに、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。切れ長の大きな目をいっぱいにみはって―――まるで時間が止まったみたいに。
呆気にとられつつも、そりゃそうか、と思う。だって男が男を好きになるなんて地元じゃいじめられて学校も行けなくなるような種類のことで、悪戯の偽ラブレター騒ぎまで起きたのに、これは悪戯なんかじゃない正真正銘の告白で、こんなこと誰からも言われたことないはずで……無理もない。
―――だけど先輩、あんたは清楚とか言ってるけど、こいつ無自覚に脅迫してくるような奴だし、ストーカーまがいのこともしてくる危ない奴だし、あんたは今夜ちょっと喋っただけで何にも分かってないのに、タイプだの何だの、適当な―――。
「ゲイって聞いただけでそんな急に都合よく好きになるもんすか。先輩の『タイプ』って、適当なんすね」
嫌味っぽい俺の言葉にも、先輩は面白そうに笑った。
「そうかな。後藤くんだって『女好き』ならわかると思うけど、出会うべくして出会った二人なら、そういう種類のことは、ただ目を見ただけで―――ほんのひとこと声を聞いただけだって、始まるときは始まるものだろう? きみが今日、吉井さんといい雰囲気になってたみたいにさ」
うへえ、なんちゅー気障な―――。
これがトーキョー人か。俺のしかめ面には構わず、先輩は大河内ににこりと微笑みかけた。
「返事はすぐじゃなくて構わないから。また連絡する」
スマートな、手馴れたやり方。大河内はたぶん断るだろう、という漠然とした予想は外れて、大河内は頷いた。
「……はい」
てことはもう連絡先は教えたってことか。
何やってんだ、と俺は呆れた。口説き慣れてる奴なんてろくなもんじゃない。どう悪用されるか分かったもんじゃ―――。
(横顔、ちょっと赤い?)
まさか、あんなチャラそうなやつに?
愕然とした。
なんで分かんないんだよ、お前頭いいはずだろ!? それとも何、お前ああいうにやけた奴が好みなわけ?
 俺のことが好きだとか言っといて、俺と全然違うんですけど、ていうか真逆なんですけど。『タイプ』って何、そんなもん?

 何だかむしゃくしゃして、帰るなりシャワーを浴びた。
(付き合うのかな、あいつと。)
 ―――まあ別に、どーでもいいけど。
あの様子ならまんざらでもないんだろうし、性格はともかく容姿とアタマは釣り合っていて、たぶん客観的な条件としては似合いの相手なんだろうし。
そうすれば俺は、やっと大河内の執着から解放されて、晴れて自由の身だ。
頭と体をがしがし洗った後、湯船に沈み込みながらふと思った。
あいつと付き合うんだったら、この学校も辞めんのかな。大学の一浪なんてありふれてるし、今から仮面浪人に切り替えて勉強すれば、あいつならいくらでもいいとこ行けるだろうし。……そう、例えば羽田野先輩と同じ学校とか。
だったら、このアパートも、居続ける理由なんて何もない。
「あーあ、そうなると出費が痛いなー」
そう口に出しながら湯舟から出て、思い切り頭からシャワーを被った。

一週間ほど経ったバイトのない夕方、ソファに寝転がって漫画を読んでいると、大河内が戸を開け放したベランダで洗濯物を取り込みながら、「そういえば」とこちらを振り向いた。
「今日、校門のところで偶然吉井さんに会ったよ。うちの学校の友だちに会いに来たんだって」
「へー」
「きみのこと気にしてた。最近忙しそうかって聞かれたよ」
「ふーん」
「映画に誘っても大丈夫か迷ってるみたいだったから、バイトがない水曜日なら大丈夫だと思うって言っといた。ああ、あと、きみの好きなジャンルがSFとアクションだってことも」
 思わず漫画のページを繰る手が止まった。
「え、何で」
「あれ、俺何か間違ってた?」
大河内と映画の話なんかしたことないのにどうして俺の好みを知っているのかは、確かに謎だ。でも俺はそういうのにはもう慣れた。今はだから、そういうことが言いたいんじゃなくて。
―――お前が? ゆうなちゃんに? なんでそんなこと言うわけ?
「何その突然の協力的な態度……」
「心外だな、後藤に釣り合うちゃんとした子なら、俺はいつだって協力的だったよ。今まではきみの趣味が悪すぎただけ。でも、吉井さんはいい子だと俺も思うから。あの様子なら、近いうちデートに誘われるんじゃない。……今度こそ上手くいくように祈ってるよ」
珍しく少し茶化すような、笑い含みの声で、まるで普通の友人同士みたいな話し方。
俺が呆気にとられている間に、洗濯物を取り込み終えた大河内は風が吹きこむベランダの戸を閉めた。
「俺、ちょっと出かけてくる」
サークルも入ってないしバイトもしてなくて友達もろくにいない奴にしては珍しくそう言って、俺に背を向ける。
「遅くなるかもしれないから、後藤、夕飯もし家で食べるなら、グラタンが冷凍庫に入ってるから、レンジで―――」
「……今日だったらいいよ」
「え?」
「暇だし、お前と一緒に飯食ってやっても」
振り向いた大河内の、面食らったような顔。
何て言うだろう、と思った。
先約があるからごめん、とか? いや、もしかしたら、何を今さら偉そうに、とか―――。
ずきり、と心臓のあたりが痛んだ。
もしそう言われたら―――。
「ほんと!?」
一瞬で頭を駆け巡った想像は、結論から言えば、完全に杞憂だった。
大河内はいつもの即断即決で、素早くポケットからスマホを取り出すと一瞬でメールを打って送信する。何のためらいもなく。
(……俺ってこんなに性格悪かったっけ。)
「これで今夜の予定はなくなった。後藤は何が食いたい? 昨日買い物行って来たばかりで材料は揃ってるから、大抵のものは作れるけど」
「いーよ、お前さっきグラタンがあるって言っただろ、冷凍庫に」
「せっかくだし作りたての方がいいだろ。ああ、それとも外がいい? そんな高級なとこじゃなければ、きみのバイト代削らなくても、俺が―――」
「なんでそこまですんの、お前は」
「だってこんな機会のがせるわけないじゃないか」
 当然だろ、とでも言いたげに大河内は言う。こいつは本当に、頭がいいのか馬鹿なのか。
「……生姜焼き」
「わかった」
「やめた。ハンバーグ」
「オッケー」
「……と、エビフライ」
「了解、エビは買いに行くから、ちょっと時間かかるけど」
「ピザと、角煮と、ローストビーフと……」
「おー、意外と大食いだな」
 何を言っても頷くなんて、馬鹿か。
 俺にはお前のダダ漏れの好意が見えていて、八つ当たりしても受け入れるって分かってて、足元を見てる。お前だってそれくらいわかってるくせに。
 わかってて受け入れるなら、それには普通、何か下心があるはずで。
 それなのに何も要求しないで『迷惑はかけない』という最初の言葉を守り続ける理由が分からない。
(それがお前の『好き』だから?)
 俺なら無理だな、と思った。『好きな相手』と、ひとつ屋根の下にいて相手に触れもしないなんて。
 ―――もしかしたらそれも、もう変わりつつあるのかもしれないけど。
「やっぱ全部やめた。カレーライス」
大河内の顔から目を逸らして、俺は言った。
「……え、そんなんでいいの?」
「ただし、思いっきり辛いやつ」

 俺には、あのにやけた先輩の何がそんなにいいのかわからない。
 ―――でもそれを言うなら、こいつが俺の何がそんなにいいのかなんて、その多分千倍くらいわからない。

作っている間じゅう、あいつは静かに機嫌が良かった。
反対に俺はしかめ面で内容なんて何一つ頭に入ってこない漫画雑誌を睨みつけていた。
小一時間が過ぎ、スパイスの香りと米の炊ける匂いが部屋に充満した頃、「できたよ」と声がしてエプロン姿の大河内が皿を持って来た。
当たり前だがいつもの作り置き用のタッパーじゃない。サラダボウルに、スープの入ったマグ、カレー皿。小さいテーブルは二人分の皿を置くだけでいっぱいになった。
「いただきます」
大河内が律儀に手を合わせて言う。いつも、ひとりでもこんなに丁寧にやってるんだろうか、と思って、こいつならたぶんやってるんだろうな、と思った。
白ご飯をスプーンですくって、カレーに浸して口に運ぶ。当り前だけど出来立ては熱い。コクがあってまろやかで、本格的なのにどこか懐かしい味のそのカレーは、ひとことで言うなら完璧で、何が入ってんのかも良く分かんないくらい美味しくて、舌が痺れるくらい辛くって―――だから。
「後藤?」
大河内は食べる手をぴたりと止めて俺を見た。
「何で泣いてるの」
「なんでもねーよ。このカレーが辛すぎるだけ」
「ほんと? ごめん。カイエンペッパーを入れすぎたかな……。次は気を付ける」
 謝るなよ、と言いかけてやめた。その代りに言った。
「―――お前って、可哀想」
「俺が?」
 大河内は不思議そうに首をかしげる。
「可哀想じゃないよ。いまきみの隣にいるのは俺だけだし。だから、いまの俺は何にも可哀想じゃない」
「そういうのが可哀想だって言ってんだよ。おまえってほんと、残念なアタマしてんな」
「可哀想でも、残念でもいいよ。きみが俺のこと、何か思ってくれるなら」
「どんだけ残念なポジティブ思考だよ……」
 そう言っているうちに視界がぼやけてきて、俺は立ち上がってテーブルの端にあるティッシュを取った。
「きみは、俺が可哀想で泣いてるの?」
「だから、違うって……」
 不意に大河内が立ち上がる。俺の顔をじっと見つめた。
「きみの泣き顔って―――ゾクゾクする」
「はあ? お前やっぱたいがい思考が危なすぎ……」
「ごめん、ちょっと、いい?」
「い、いやだ」
抵抗虚しく、大河内の手が俺の手首を掴む。
「イヤだって言ってんだろ馬鹿野郎」
「悪いけど、今のイヤだは、嫌に聞こえなかった」
真っすぐに強い目で射抜かれて、そうしたらもう何も言えなくなった。顔を近づけられて少し体を引いたけど、そんなんじゃ到底避けられるはずもなく、易々と壁際に追い詰められてしまう。
 本気で抵抗しなきゃあいつの熱量には敵わないってわかってるのに。
大河内は俺の顔を覗き込み、何か見つけでもしたように首を傾げた。
「ねえ後藤、きみ、もしかして―――」
「―――お前はさ、何で俺なの」
 くそ、と思う。こんなこと言ったら、もう認めたも同然じゃんか。
「だって全然、話したこともなかっただろ」
「後藤、中学のときカモメゼミナールに通ってたよね」
 思いがけず懐かしい塾の名前が出てきたのに驚いて頷くと、大河内は少し微笑む。
「俺も」
「えっ、全然知らなかった」
「中学違ったし、俺は部活のせいで遅れて行くことが多かったから。……あの塾で、きみは3年間ずっと俺の前の席だった」
「そーだったっけ……」
「前の席でいつも、休憩時間になると近くに座った同じ学校の友だちと話してた。俺はそれを聞くのが好きで」
「ま、まさか、その頃からストーカーしてたのか、お前」
「きみの声が大きいだけだよ。勝手に聞こえてくるから聞いてただけだ」
 この言い草。こんな状況でも、やっぱり大河内は大河内だ。
「でも俺らバカ話しかしてなかったろ。学校であったしょうもないこととか、気になってる女子のこととか……話を聞いてるだけでその―――好きになるような、そんな質の高い話してなかったと思うけど」
「うん、確かに」
「そこ肯定すんのかよ……」
 でも、と大河内は懐かしそうに目を細めて、俺の目を見た。
「そうやってその日楽しかったこととか好きな人のことを語るきみの言葉は、明るくて、真っすぐで、俺は、ああ、君にそういう風に思われる子は幸せだろうなって、思ったんだ。―――高校が同じになったのは偶然だった。でも俺は、遠くから見ているだけで良かったんだ。きみが話しかけてくれるまでは」
「話しかけたっていうか、怒鳴り込んだだけなんだけど……」
 そして、その原因を作ったのはお前の行動なんだけど。しかし、俺の言葉なんて聞こえていないように大河内は続ける。
「だけど、きみが好きになる子はどういう子なんだろうって興味を持って見ていたら、きみのあまりの見る目のなさにびっくりして……そのせいで少し、俺も欲が深くなってしまったのかも」
「どういう意味だよ」
「きみが好きになったどの子より、俺の方がきみを幸せにしてあげられる、だから―――」
 また、あの目。
「きみが欲しい、って、思った」
「な」
「だから後藤、全部きみが悪い」
 そんな屁理屈―――。
「好きだよ」
 真っ直ぐに見つめられて、今度こそ本当に身動きが取れなかった。
「きみが、好きだ」
 そう言った唇が近づいて、俺の唇に触れる。動けないでいる俺の、その沈黙の意味を理解したように、ひんやりとやさしく。切なげな、泣き出しそうにも見える表情で。
 ああもうだからイヤだったのに。
 全部お前のせいだ。お前がそんな顔をするから。いつも、そんな風に馬鹿みたいに真っ直ぐに俺を見るから。
(ああ、くそ。)
 二人暮らしなんて、いつかはこうなるに決まってんじゃんか。
 ―――その「いつか」が来るのが遅すぎるなんて、口が裂けても言わないけれど。

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