友情と微熱
一
あいつをいつから知ってるか、なんて、聞かれても全く覚えてない。分かるのは、物心ついたときには既に隣にいたってこと。
母親に聞いたところによると、俺と理玖は保育園の一歳児クラスから一緒で、いつも隣同士に並んで寝かされていたのだという。
『あんたはよく泣いたり暴れたりで手のかかる子だったけど、保育園でも理玖くんが隣にいる時だけは、おとなしく良い子にしていたんだって先生も言ってたわ』と母親は笑っていたが、そんなに幼くても気が合うとかそういう感覚ってあるもんだろうか。
それはとにかく俺たちが仲良くなったのをきっかけに親同士も仲良くなり、俺たちはそれからというものまるで兄弟のように育った。家も近所で、お互い仕事で忙しい両親を持つ一人っ子同士。環境が似ていたこともあり、どちらかの家に預けられることも多かった。
当時の写真なんかを見ると、確かにいつも俺の隣にはあいつがいる。アルバムを見れば、保育園、小学校、中学校、そして今―――高校一年生の秋―――まで、あいつが写っていない写真なんてほとんどない(あったと思うとそれはあいつが撮った写真だったりする)。
それくらい、俺たちは同じ時間を同じ場所で過ごしてきたのだ。
「あっ、ちょっと、裕太ぁ」
理玖が慌てたように言って、体操服の上にジャージの上着を突っかけた格好で俺の後ろを追いかけて来る。その、男にしてはやや長めな色素の薄い髪がふわふわと秋の夕暮れの風になびいた。
高道祖理玖。名前の方は理玖と書いて『よしひさ』と読む。姓の『たかさい』に関しては、一発で読める奴なんか見たことがない。姓も名も読みづらくて仰々しいその名前が、こいつの本名だった。俺の『長江裕太』というシンプルな名前とは正反対だ。
「いいってば、裕太、ローラーなんか俺がやるから。裕太は疲れてるだろ、休んでなよ」
そう言いながら、理玖は俺が押しているグランド整地用のローラーに手を伸ばす。俺たちは二人とも陸上部で、練習はさっき終わったところだ。ほとんどの部員はもう部室に戻っている。
「いいよ。リクに任せとくと、何時間かかるか分かんねーしな」
俺は理玖を振り返る。ちなみに、リクというのはあだ名だ。『理玖』という名前を音読みにした愛称。これは理玖の両親が、「よしひさって、なんか長くて面倒くさいな」と言って―――じゃあなんでそんな名前を付けたんだ? と思うが、理玖の両親はそういうちょっとユニークな人たちだったので―――使い始めたもので、理玖の両親と俺の両親、それと俺だけが使う愛称だった。
「そっ、そんなことない! っていうか裕太レギュラーなんだからさ、こんな雑用させらんないって」
そう言われて、むっと顔をしかめた。
「別にそういう区別なんか無いだろ。それに、お前だってマネージャーじゃなくて選手なんだから」
「選手って言っても俺は万年補欠だし、マネージャーみたいなもんだよー」
理玖はそうあっけらかんと言って笑う。俺は溜息をついた。
兄弟みたいに育ったと言ったが、その内訳はいつだって、俺が『兄』で理玖が『弟』だ。この構図は物心ついた頃から変わらない。良く言えばおっとりしている、悪く言えばどんくさい理玖と、良く言えば活発で、悪く言えば荒っぽい俺の組み合わせなのだから、そうなるのも当たり前だった。
理玖はいつだって俺の後をついてきて、俺と同じことをしたがった。兄の真似をしたがる弟みたいに。陸上だって、俺が中学の部活動でそれを選んだから理玖も入ったのだ。高校でも同じだった。
「だけど、補欠だって他にもいっぱいいるはずなのに、最近こういう雑用が全部お前の仕事みたいになってんじゃんか。こういうのは、一人でやらなくていいんだよ。みんなでやるか、持ち回りでやるべきで……」
「でも、みんな忙しいからさ。先輩も、大会終わったらなるべく話し合って当番制にするようにするから、今だけは出来る奴がやっといてくれると助かるって言ってたし」
「お前なぁ……ヒマ人扱いされて体よく押し付けられてんじゃねーよ」
そう言うと、理玖はキョトンと俺を見る。俺は溜息をついた。皆に悪気がないことは分かっている。ただ甘えているだけなのだ。こいつがこういう奴だから。他の補欠の奴らなんか、もうとっくに帰っちまってるってのに。
「んん? どゆこと?」
「もういいから! さっさと終わらせんぞ」
首を傾げる理玖に背を向けて、重いローラーを押す。こいつは昔からこうだ。こういう性格だから、小中では馬鹿にされたりいじめの標的にされそうになったこともあった。だけどそれに気づいているのかいないのか、いつも飄々としていて、いじめようとした側があまりの反応のなさに馬鹿らしくなってやめるような有様で。俺が理玖だったらおそらく殴り合いのけんかになるだろう状況も、理玖にかかるといつの間にか相手の方が拳を下ろしてやれやれと肩をすくめている。
整地が終わって部室に戻り、着替えて帰途に就く頃にはもう西の空の一部を除いて真っ暗になっていた。他の部員の姿はとっくに消えている。秋の日は釣瓶落としという言葉の通り、日に日に日照時間が短くなっていくのが手に取るように分かる。
すっかり暗くなった道を他愛ない学校や部活の話をしながら歩いて、いつものコンビニに入った。
部活の後はいつも、家の近所のコンビニでコーヒー牛乳と焼きそばパンを買って食べるのが習慣になっている。夕飯に支障が出そうなもんだが、育ち盛りの上に毎日かなりの運動をしているからか、いくら食っても腹が減るので問題ない。それに俺の場合、家に帰ったところで夕飯が用意されているとも限らなかった。
「そういえば裕太、またちょっと背が伸びたんじゃ……」
理玖が紙パックのコーヒー牛乳にストローを挿しながら言う。
「そうか? 春に測った時は百七十三センチだったけど」
「いや、この差は五センチどころじゃないな……裕太たぶん百七十六はあるよ……」
理玖は俺の隣にぴったりくっついて立って、手で俺との身長差を測ってみせる。
「んー? そう言うならそうかもな。それがどうしたんだよ」
「どうしたもこうしたもないよ。せっかく俺もうちょっとで追い付きそうって思ってたのにさあ」
「はあ? そんなの気にしてたのか。お前だって別に低いわけじゃねーし、別にそんなに気にすることでもないだろ」
「ふん、いいよね、高い方は余裕があるから何とでも言えるよね」
理玖はぷいっと目を逸らして焼きそばパンにかぶりつく。その拗ね方が子どもみたいで面白くて、俺は思わず笑った。
そんな俺を理玖はじっと見つめ、ほっとしたように目元を綻ばせる。
「良かった」
「何が?」
「やっと笑ってくれた」
少し驚いて理玖を見る。理玖はそれ以上は何も言わず、美味しそうにパンを頬張った。
(……心配させてたんだろうか。)
理玖はぼーっとしているようでいて、たまに突然こういうことを言う。それは、こんなに近くにいて、毎日顔をつき合わせて話している俺にとっても毎回意外で不思議なところだった。
「お前んちの母さんが何か言ってたのか?」
そう聞くと、理玖は首を振る。
「母さんは何も言ってないよ。俺が勝手に気にしてただけ」
「……そっか」
「心配なんだ、裕太は危なっかしいところがあるから」
はあ? 危なっかしいってどっちがだよ、と言おうとして、ああ、中学の時のことを言っているのか、と気付いた。あの頃のことは、確かにそう言われても仕方ない。
昔から変わらずずっと円満な理玖の家と違って、うちの両親は俺が中学に入った頃からうまくいかなくなった。はじめはひと月に一度くらいの頻度で父親と母親が夜中に大喧嘩をして、朝になるとどちらかが消えているという程度だったのが、その間隔がだんだん短くなり、出て行った方が帰ってこない期間も長くなっていって、今では二人とも、家には荷物を取りに寄る程度でほとんど帰って来ない。
母親の初めての長い家出は、俺が中学二年の時だった。その時は二か月くらい帰ってこなくて、その間父親はわざと帰りを遅くして、俺と話すのも避けるような有様だった。
そして俺はといえば、まあ、一言で言えば荒れた。理玖にも言わずに学校を休み、当然部活にも顔を出さず、一週間後には髪を金髪に染めて昼間からゲームセンターにたむろする集団の仲間に入っていた。我ながら分かりやすいグレ方だったと思う。
そして、あれはちょうど今頃の季節だった。今日みたいな金木犀の匂いがする夕暮れだ。ゲームセンターの裏の駐車場でひとりでタバコを吸っていた俺に理玖が駆け寄ってきたのは。
「学校にも来ないし、家にもいないから、探しちゃったじゃないか」
よほど急いで来たのか珍しく息を切らしながらも、いつもの気の抜けた笑顔で話しかけてきた理玖を、俺は睨みつけた。
「何しに来たんだよ」
なるべく不機嫌そうな声を出す。誰とも話したくなかった。威嚇したつもりだったが、理玖は怯まなかった。代わりに俺の髪をしげしげと見つめる。
何を言う気だろうかと俺は一瞬身構えたが、次の瞬間、理玖は満面の笑みを浮かべた。
「綺麗だね!」
俺は呆気にとられた。てっきり小言を言われるものだと思っていたから。
「俺は裕太の真っ黒な髪もすごく好きだったけど、これはこれでいいかも。派手な鳥みたいでカッコいいよ」
それは、褒めているつもりなのか?
俺は呆れてため息をついた。―――まったく、こいつは。でもそのため息で、何か自分の中の固い塊が溶けていく気がした。
「……何で分かったんだよ、こんなとこ」
「俺には裕太センサーが付いてんの」
「はあ?」
「これ、ここ」
相変わらずの平和な顔で微笑みながら、自分の髪を指さす。頭のてっぺんあたりの、ぴょこんと立っている癖毛。
「これがね、裕太がいると反応するんだ。ここだ! って。ほら、今も」
「……はあ」
俺があまりの馬鹿らしさに脱力すると、嬉しそうに笑った。そしてさも当然のようにガードレールの俺の隣に腰掛ける。
「遠くから見ててびっくりした、もうそんなに寒くなったのかと思ったから」
「……お前が言うことって、だいたい意味が分かんねえ」
「息が真っ白だったからさ。もうそんな季節かあって」
ああ、煙のことを言っているのか、と気付く。タバコには驚かなかったくせに。
理玖は俺の吐き出したタバコの煙をまるで綺麗なものでも見るように目を細めて眺めて、それからけほけほと咳をした。理玖は気管支が弱いのだ。俺はタバコを消した。
「つーかまだ十月だぞ。息なんか白くなるもんか」
「うん。でもなんか、寒そうだったから、裕太が」
理玖は不意に真っすぐに俺を見た。
「大丈夫? 裕太」
「……だから、意味分かんねえって」
「そうだね、俺も分かんないや。でももういいんだ、裕太に会えたから」
そう言われて、心から安堵したように笑われて―――俺はなんだか急に馬鹿らしくなった。イキがって染めた髪も、旨いとも思っていないのに誰かへの当てつけみたいに吸う煙も、全部。
結局、その日を境に不良はやめてしまった。金髪もタバコも、後にも先にもあれっきりだ。
要領の悪い理玖がひと月もの間、ありとあらゆる方法で俺を探し回っていたことを知ったのはだいぶあとのことだ。あいつはそんなことはおくびにも出さなかったから。
もしもあの時、俺があのままもうちょっと深みに進んでいたら、とはたまに考える。そうしたらきっと、もう学校に行くことはなかっただろう。悪い仲間との関係から抜けられなくなって、きっと陸上もやめていた。いま部活に振り向けている分のエネルギーをどこにぶつけていたかを考えると、きっと今こうして並んで平和にパンを頬張っていることはなかっただろうということは分かる。
「―――でさぁ、そこで田中くんがね……って、聞いてる? 裕太」
「ん? ああ、うん」
ぼーっと考えに浸っていた俺は曖昧に返事を返す。
「将棋部に入らないかって誘ってきて」
「へー」
「俺、入ろうかと思ってるんだよね」
「うん」
―――うん?
唐突な展開に驚く。思わず聞き返した。
「入る? 将棋部に? お前が? 何で」
「あっほら、やっぱり聞いてなかったんじゃん」
理玖は苦笑した。
「団体戦のメンバーが足りないんだって。俺が将棋少しくらいなら出来るよって言ったら、じゃあぜひって熱心に誘ってくれてさ」
「だってお前、陸上はどうするんだよ」
「続けるよ」
理玖はあっけらかんと言う。
「大丈夫、俺どうせ万年補欠だしさ、うちの学校ってグラウンド狭いのに使う部活が多すぎて、どうせ大会前になるとレギュラー以外はトラックが使えなくて休みになっちゃうじゃん。その間は暇だしさ。将棋部は、大会にだけ出れば、あとは気が向いた時に部室に顔を出すだけで良いって言うから、兼部する」
「……ふーん」
俺は少し驚いていた。こいつが俺と違うことを始めるのは初めてのことだったから。ずっと俺の後をくっついてくるだけだった理玖が、誘われたからとはいえ自分から何かやりたいなんて言い出すなんて。そういえば父親とたまに将棋を指すとは言ってた気がするけど、そんなに好きだったなんて知らなかったし。
(―――まあ、好きにすればいいけど。)
食べ終わったパンの袋とコーヒー牛乳の紙パックをまとめてコンビニのゴミ箱に捨てた。
いつもの角で理玖と別れる。
「またな」
「うん、また明日」
いつも通りの夜が過ぎれば、またいつも通りの朝が来る。俺は何でかずっと、俺たちは変わらないと思ってた。
子どものころのまま、いつだって俺の後ろをお前が歩いて来るんだろうって。
「リク、いるか」
ひと月が経ち、部活の大会が迫った頃、理玖のクラスに顔を出すと、理玖は誰かと談笑している最中だった。
「あ、裕太」
理玖はまだ笑みの残った顔を上げて俺を見る。それを潮時にしたように、傍らの生徒が立ち上がった。
「じゃあな、俺先に行ってるから、リク」
「うん、後でね」
理玖は手を振って、俺に向き直る。
「そういえば、新しいユニフォーム届いたってね。もう見た? 結構カッコいいって評判になってたよ。今日レギュラーに配られるんだっけ?」
俺は質問には答えず、出て行く生徒の後ろ姿を見た。
「あれ、将棋部の奴?」
「うん、そう。部長の田中くん。人数足りてなくて、部長も一年なんだ」
「あいつお前のことリクって呼んでるのか」
「うん。よしひさって長いから、なんかあだ名で呼びたいけどないのかって言うから、裕太からリクって呼ばれてるって言ったら、じゃあそれでってことになって」
「別にリクじゃなくてもいいじゃんか。よしくんとかよっくんとかお前が呼ばれてたあだ名なんか、他にいくらでも……」
「ええー、でもそれ小学校の時に女の子が呼んでたやつだろ。それにくん付けって、何かさ。そうすると今でも使われてるのってリクしかないじゃん」
「でもリクは、俺しか―――」
言いかけて、ハッとした。俺しか呼んじゃいけない? そんな、子どもの我儘みたいなこと。
恥ずかしくなって、とっさに誤魔化そうという意識が働く。
「てゆーか別に、お前足遅いんだし、どうせレギュラーになんかなれねーんだからいっそ陸上部の方をやめちまえば?」
理玖は驚いたような顔で俺を見る。
俺は言ったそばから後悔していた。自分を立て直すために、ちょっとふざけたくらいのつもりだったのに。でも口調があまり明るい調子にならなくて、内容もただの悪口みたいで、何だかちょっと笑えない。
でも一度口から出た言葉はもう戻せない。言ってしまったら、本気でそう言ったことにしなくちゃいけない。じゃないと何でそんなことを言ったのかが問題になる。そしてたぶん、その理由は気付かれてはいけないものだった。
「……もしお前が俺に気を遣って陸上部を続けてるんだったら、もう、そういうのいいしさ」
目を逸らしたまま、そう言った。
「違うよ、そんなんじゃない。俺は運動神経よくないし、そんなに速く走れないけど、裕太の走るとこが好きだから同じ部活で応援してたい。でも、それじゃ駄目だった?」
(……クソ)
自分に対して毒づく。理玖の言葉は俺なんかがもらうには真っ直ぐすぎて。掛け値なしに嬉しいのに、ありがとうも言えずにうつむいた。自業自得だけど、何がこんなに苦しいのかも分からないまま。
翌日は土曜日で、陸上部は午後練だった。大会のちょうど一週間前のこの日を境に、その翌日からの練習はレギュラーだけになる。
「……うーん、駄目だなあ」
顧問の教師がストップウォッチを見ながら溜息をつく。
「一体どうしたんだ? 長江。スランプか?」
俺は黙って汗をぬぐった。大会直前期だってのに、調子は最悪だ。タイムが伸びないどころか、自分史上最悪を更新してしまうなんて。
「お前だけは期待できると思ったんだがなあ」
顧問は残念そうにそうつぶやく。
うちは一応進学校に入る県立高校で、運動部の成績は全体的に中の下。陸上部の成績も、御多分に漏れずそんな感じだった。人材も設備も、予算のある私立とは比べものにならないほどショボい。そんな中で予算獲得と地位向上を目指すために期待をかけられているのが、この学校の陸上部でいちばん記録が良い俺だった。
白々とした部員の視線を感じる。俺はもともとそんなに態度の良い方じゃないし、この部活に自分の居場所があるとすればそれは成績でしかないということは自分でも分かっている。
それはつまり、成績が下がるということは、居場所を失うということ。
「頑張ってくれよ、長江。お前は『掃きだめの鶴』なんだからさ」
顧問はそう言って笑うと、今日の部活はこれで終わりだという旨を告げて帰って行った。
「顧問の先生がああいう言い方をするから、皆の裕太への誤解が生まれるんだと思うんだ」
理玖がタオルを差し出しながら少し顔をしかめて言う。
「裕太自身は何も言ってないのに、周りを見下してるって思われてる。そんなことは全然ないのに」
そんなことはどうでもいい、と俺は思う。大事なのは記録だ。人が期待しようが失望しようが、俺を良い奴だと思おうが悪い奴だと思おうが、関係ない。
「もう一本測ってくれないか」
部活はもう終わりだが、俺は理玖にそう言って日が傾きかけたグラウンドを歩き出した。
だが、こういう日は本当に何もかもが上手くいかなかったりするのだった。
俺は多分少し疲れていた。何となくふらついているような自覚もあった。そのせいか、スパイクが何もないところで地面に突っかかって、バランスを崩す。それ自体は割と頻繁に起きることだが、ぼーっとしていたせいで受け身を取れず、派手に転けた。
「……っ痛―」
大したことはないが、かすり傷が出来て血がにじむ。記録が出なくて、イライラして、完全なる一人相撲。
「ぷっ」
その様子を見ていたらしい部員の一人が噴き出した。
「何だよ」
俺はそいつを睨む。同じ一年の補欠選手で、補欠組の中ではたぶんいちばん成績の良い奴だ。
「別にぃ。たださ、スランプだか何だか知らねーけど、大会の出場枠をそれだけ一人でとったくせに、何一つ記録残せませんでした、じゃあ、がっかりだなーと思っただけだよ。先輩も可哀そうだよなぁ。一年に枠取られた上に、『調子が悪かったんで~』って軒並み圏外とか出されたらさあ。それか、その感じだと転倒で棄権かもな?」
その言葉に同調するように、囲んだ数人から笑いが起きる。
「何だと?」
突っかかるような物言いにカッとなって起き上がると、慌てたように理玖が飛んでくるのが見えた。首を振っている。相手にするなと言いたいのだろう。
「でも実際、納得いかねえんだよな。ここ数日のタイムでいったら、俺のベストの方が断然速ぇし。顧問に才能があるとかちやほやされてて、調子に乗ったんじゃねえの?」
一触即発。思わず口よりも前に手が出そうになる。そういう雰囲気を察知した何人かが止めに入って、その中に理玖もいた。
「裕太、暴力は絶対駄目だよ。大会に出たいだろ? お互い大会前だからちょっとピリピリしてるだけだ。ちょっと離れれば落ち着くよ」
理玖の言葉を聞いてそいつはフンと鼻を鳴らした。嘲笑うような表情を浮かべて、理玖を見る。
「長江がいつも高道祖と一緒にいる理由もだいたい分かるぜ。こいつ女みたいに細くて体力ないもんな。自分よりショボい奴と一緒にいれば自分のが上だって思えて気持ちが良いからだろ?」
(こいつ、なんてこと―――)
怒りで目の前が真っ白になった。理玖の言葉があと一瞬遅ければ、俺は本気で、思い切りそいつを殴り飛ばしていたかもしれない。
「違う」
意外にも、間髪入れずにその場にきっぱりと響いたのは理玖の声だった。いつもは何を言われても反論なんかしない奴が、冷静に、でも静かな怒りを目一杯に湛えて、真っ直ぐにそいつを見据えている。
「裕太はそういう奴じゃない。他人がどう言おうと、自分の価値を自分で決められる奴だ。俺が裕太よりずっと『下』なのは認めるし、俺のことは何て言ってもいいけど、裕太のこと悪く言うのは許さない」
向こうは理玖を、何を言っても反論できない気が弱そうな奴としか思っていなかったのだろう。呆気にとられたように黙り込んでしまった。理玖は厳しい目のまま、そいつと、そいつに同調して笑っていた数人を見回す。
「裕太は君らなんかより、ずっと練習してる。それも分かんないくせに、適当なことを言うな」
(―――これじゃ反対だ。)
本当は俺が否定しなければいけなかったのに。
理玖を貶された時、俺は心の底から怒りを感じた。大声で否定したいと思った。それなのに、咄嗟に声が出なかった。
こいつの良さを、凄さを、俺は知っている。それをあいつらにも知ってほしい、でもそれと同じくらい、知られたくない。
一体これは何なんだろうと俺は思う。この気持ち。苦しいけどそれだけじゃなくて、焦りにも似ているけれど何かが決定的に違う。嬉しいのとも悲しいのとも違う。
結局、気を削がれたらしい彼らは一言二言の捨て台詞を吐きつつ部室の方へ帰って行った。
それを見送って、理玖は俺に向き直る。俺の足に目を留めると驚いたように目を丸くして「うわっ、血が出てる。消毒しないと」と言った。もうすっかりいつもの理玖だ。
でも俺は、「自分でするからいい」と言って理玖に背を向けた。
「そっか、でもあまり放置しないようにね。余計なこと言ってごめん」
理玖はそう言うと、返事も待たずにいつものように整地用ローラーを取りに行った。
「……謝るなよ」
思わず言葉が零れる。頭の中で言葉にならない感情が渦を巻いていて、何だか無性に苦しかった。
「『下』って何だよ……」
腹の底に溜まって暴れ出しそうなこの感情。とにかくあいつを見ていると最近何だか苦しくて、頭がおかしくなりそうで。
(なんなんだこれ……。)
泣きたいような、苦しいような。焦りのような、でももっと別の何かのような。
この気持ちの、正体が分からない。
いたたまれずにその場を離れた。家に帰る気にもなれない。だとすれば、いつもの場所だ。鍵が壊れた南校舎の屋上。俺の秘密の場所。
俺は一気に階段を駆け上がり、息を切らして座り込む。今日はもう、何だかひどく疲れていた。秋の陽ざしに温められたコンクリートは柔らかく温もっている。俺は寝ころんで少しずつ色が変わって行く空を眺めた。そうしているうちに瞼が重くなる。
そして夢を見た。たぶん俺たちが、今の年齢の半分くらいだった頃のこと。
**
遠い山の向こうに日が落ちてから、もうだいぶ時間が経っていた。明るいオレンジ色だった空が煮詰まったように赤黒くなり、何だか禍々しくさえ見えるような色を背景に鉄塔が黒々と聳えている。
それを横目に見ながら、俺は国道沿いの道を無心に歩いていた。たまに後ろを振り返って、理玖がいることを確認する。理玖は何も言わず、ただ後ろをついて来る。
国道は交通量が多く、しかも田んぼの中の信号もない一本道だからスピードを出す車が多かった。その割に路側帯は細く、歩行者の存在など想定していないらしくガードレールの類もない。今も俺たちのすぐ隣を、やけに速い車がぎゅうんという大きな音を立てて走り抜けていき、俺は思わず一瞬足が竦んだ。
街灯もないから、完全に日が落ちればきっと真っ暗になってしまうだろう。そんな危険な道をランドセルを背負った子どもが二人きりで歩いているのが異常だということは、さすがに自分でも分かっていた。何よりの問題は、俺も理玖も、ここがどこだか分からないということだ。
「だいじょうぶか」
振り向いて聞くと、理玖は頷いて「だいじょうぶ」と返す。でもその顔はあまり大丈夫そうじゃなかった。理玖は、今でこそ平均的な体格に近づいているが―――とはいえまだ華奢だが―――、当時は同年代の子どもよりも一回り身体が小さくて、気管支が弱いせいか虚弱体質気味なところがあった。
(全部俺のせいだ。)
唇をぎゅっと噛みしめる。
通学路とは違う道を通って、冒険ごっこをしようと持ちかけたのは俺だった。本当はいけないことだけど、だからこそ新鮮で楽しかったのだ。初めてじゃなかったし、ちゃんと帰れる自信もあった。だからいつもより少し遠回りしてみたいという誘惑に抗えなかった。
理玖に「いつもと違う道で帰ろう」と誘うと、はじめは「あぶないんじゃ……」と心配していたが、結局俺の押しに負けてしぶしぶ頷いて、「少しなら」と言った。
はじめ、俺たちは見慣れた田んぼの用水路で小魚やヤゴを追いかけていた。それからタニシやザリガニを見つけるために用水路に沿って少し歩き、その先の野原でカエルを捕まえ、バッタを追いかけ、最後に図鑑でしか見たことのなかった大きなトンボが飛んできたので、嬉しくなって無我夢中で追いかけて―――。
気付いた時にはすっかり道に迷っていた。
その時はまだ明るかったし、「この大きい道を歩いていけば帰れるからだいじょうぶだ」と俺は主張し、理玖はこくんと頷いた。
本当はその時、理玖に道がわからないと正直に話して、謝って、近所の家のチャイムでも鳴らして道を聞くなりするべきだった。迷子になったのは分かっていたのに、意地になった俺にはそれを認めることができなくて。
―――夕闇の迫る国道の周囲には、田んぼと道路以外何もない。そして、この道を行けば本当に帰れるのかどうかも分からない。
遅れがちな理玖を振り向くと理玖は微笑んだ。平気そうに見せてはいるが、息には少しぜいぜいという音が混じっているような気がする。
次に人に会ったら、絶対にちゃんと道を聞かなければ。本当ならもうそろそろ夕飯の時間のはずだ。とにかく早く家に帰って、こいつを休ませてやらないと。
その時、隣を大きなトラックが猛スピードで走り抜けた。背の低い俺達にとって、トラックはまるで巨人の乗り物のような巨大さだ。それが走り抜けるときに起こった風は、突風のように俺たちを襲った。
風にあおられて、理玖は転びそうになっている。万一車道側にでも倒れたら。俺はぞっとした。
「リク!」
その身体を支えようと、咄嗟に一歩踏み出し―――そこで景色がぐらりと揺れた。
「ゆうたっ」
悲鳴のような理玖の声。
「だ、だいじょうぶ?」
「ああ」
俺は身体を起こす。理玖を助けるつもりで自分が転ぶなんて。かっこ悪いったらない。
「ゆうた、血が出てる」
理玖が慌てたように言う。俺の足には擦り傷が出来ていたが、幸い理玖に怪我はないようだった。
「なんでもねーよ。いくぞ」
そう言って立ち上がりかけ、しかしすぐにまた尻もちをついた。右足首の激痛で足を地面につくことができなかったのだ。
「ゆうた、おれにつかまって」
「いいって、おまえくるしいんだろ」
「だいじょうぶ」
理玖はにこりと笑い、有無を言わさず俺の手を取ると、俺の腕を自分の肩に回した。
「まっくらになるまえに、あそこまであるこう。きっとだいじょうぶだよ」
そう言って、遠くにぽつんと見えるガソリンスタンドの灯りを指さした。
(ああ、分かってたんだな。)
その時、俺は思った。
(こいつは全部分かっていて、それでも俺についてきた。)
結局、そのガソリンスタンドまで歩く必要はなかった。
「―――あ」
理玖が何かに気付いたように動きを止める。パトカー。それは俺たちの脇で停まった。ドアが開いて制服を着た警官が二人降りて来る。一人が身をかがめて俺たちを覗き込んだ。
「子どもが二人で国道を歩いていて危ないと、この付近を車で通った人から通報があったんだ。君たちはここで何をしているの? おうちの人は?」
そこから親に連絡して、先に連絡がついた理玖の親が仕事中だったにもかかわらず心配して飛んで来てくれて、一緒に警察官に頭を下げてくれて、ひとまず理玖の家に帰った。
やがて俺の両親も来て、俺は俺の両親と理玖の両親に悪いのは俺だと正直に話した。当たり前だが、こっぴどく叱られた。
「……ゆうた」
ひとしきり怒られた後、廊下の隅にぽつんと座り込んでいた俺のところに、理玖がやって来た。
「リク。もうだいじょうぶなのか」
理玖は帰ってから薬を飲んで休ませられていた。その顔はまだ少し青白いけれど、にっこりと笑って頷く。
「だいじょうぶ! それよりさ、ありがとう」
「は?」
何でお礼なんか、と思う。逆だろ。お前は俺のせいで、危険な目に遭ったのに。
「すごくたのしかった。これ、お礼」
理玖はポケットから大事そうに戦隊キャラクターのついた絆創膏を取り出す。ぺりぺりと糊をはがして、それをおれの擦り傷に貼り付けた。
「はやくなおりますように」
**
ハッと目が覚めた。目を開けると眩しいオレンジ色の光が目に飛び込んでくる。もうすっかり夕方だった。
風はもうだいぶひんやりとしているのに、何だか身体がやけにぬくぬくしているなと思って初めて、身体の上にジャージやら上着やらが載せられていることに気付く。
「……何でここだって分かったんだ」
寝転がったままそう声を掛けると、笑い含みの声が「やっと起きたんだね」と言った。
「分かるよ、裕太が行きそうなところくらい」
「センサーが付いてるから?」
「あはは、懐かしいなそれ。覚えてたの」
そう言って理玖は上から俺の顔を覗き込む。俺はフン、と鼻を鳴らした。
いつからいたのか、理玖は俺の隣に座っていた。傍らには救急箱が見える。寝転がったままで足を上げてみると、俺の足の傷は既に消毒されて、その上から味気ない真っ白なガーゼが貼ってあるのが見えた。
「放置するなって言ったのに、するつもりだっただろ。裕太は消毒する時いつも痛がるくせに、今日は気付かないくらい良く寝てたよ」
理玖はそう言って笑う。西日が差して、その色素の薄い髪が西日に溶けていた。眩しくて目を細める。
「……お前、何なんだよ」
思わず言葉が零れた。
「何怒ってんの、裕太。あ、分かった、寝ぼけてるんだ」
「寝ぼけてねーし、怒ってもねーよ」
「怒ってんじゃん」
「気になるんだよ、お前、そーゆーとこどうにかしろよ」
怒っているわけでは決してない。それなのに理玖を見ていると、無性に苛々する。
怒りに似ている気はする。でも違う気もする。そんな、自分でも分からない、この感情。
「そーゆーとこってどこ?」
「全部」
「あはは、何だそれ。八つ当たりにもほどが―――って、え」
声が途切れた。
理玖の薄く見える唇は、触れてみると思ったよりずっと柔らかかった。
目を開けたままだったから、まん丸く見開かれた理玖の目が良く見える。
たぶん自分の顔以上に見慣れた顔だが、ここまで近くで見たことはなかった。その淡い褐色の虹彩は、繊細な硝子細工みたいにキラキラしている。それはまるで吸い込まれそうなくらいに綺麗で―――。
「ゆ、裕太……?」
その声にハッとする。理玖の細い指が困惑したように唇を押さえていた。
一気に顔に血が上る。反射的に跳び退った。
「ごめん、ぶつかった!」
そう叫んで、手当たり次第荷物をひっつかんで立ち上がる。
(何やってんだ、俺は。)
頭を思い切り柱にでも打ち付けたい気分だった。陸上でもスランプで、頭ん中もぐちゃぐちゃで、でも、だからって、迷走するにもほどがある。よりによって幼馴染にキスするなんて。しかも同性の。
「―――ねえたぶん熱あるよ、裕太」
逃げるように屋上のドアを押し開けた俺を、理玖の声が追いかけて来た。
「え」
思わず振り返った。
「今、すげー熱かった。スランプっていうか、風邪引いてるんじゃないの? ちゃんと薬飲んで、温かくして―――」
最後まで聞かずにドアは閉まってしまったけど。
俺は自分のしたことにとにかく動揺していた。どうやって家に帰ったかも覚えてないほど。
でも実際、家に帰って体温計で測ってみたら、38度5分だった。立派な高熱だ。
その日たまたま早く帰っていた母親に病院に連れて行かれ、医者に風邪だと言われて薬を貰う。結局何もかも、理玖の言ったとおりだった。
元来身体は丈夫な方だ。一日静養したら、風邪は嘘みたいに治った。
「一時はどうなることかと思ったが良かったよ、おめでとう」
顧問はそう言って表彰台から戻ってきた俺の背中を叩く。いくつかのメダル、そして賞状。思わず顔をしかめるような眩しいカメラのフラッシュ。それがもう一度、そしてまたもう一度。
理玖も駆け寄ってきて「おめでとう、裕太!」と言う。あまりにもいつもと変わらないその調子に、いっそ拍子抜けしてしまった。そもそも、こっちはあんなことがあってから初めて会う時の最初の一言を何にするかで一晩悩んだってのに、大会の会場に行くマイクロバスで何事もなかったかのように隣に座ってきて、普段と何も変わらない笑顔でお菓子を差し出してきたのだ。
最初の一言といえば、あの日喧嘩した相手の奴についてもだったが、奴もいつも通りに振る舞っている。俺が記録を出した試合後には何事もなかったかのようにハイタッチを求めてきた。
「あいつ、裕太が休んだって聞いて、気にしてたみたい。裕太が誰よりいちばん練習してたこと、ほんとは皆ちゃんと分かってたんだと思うよ」
理玖が言う。
「あの後に会った時、『来年うちの部を背負って立つ奴が、あれくらいでダメになってたら困るんだ』って言ってたし、案外、発破をかけるつもりだったのかも」
俺はふんと鼻を鳴らした。余計なお世話だ。
大会はほとんどの種目が終わり、あとは閉会式を待つばかりになっていた。
理玖は、昼めし食ったら眠くなったとか言って、俺の膝に頭を乗っけて目下爆睡中だ。
(そりゃいつも通りといえばそうなんだけど……。)
俺は溜息をつく。
(ああいうことがあった後だし、普通はもうちょっと……。)
膝の上に目を落とす。ヨダレを垂らした平和な顔にイラッとして、同時にその柔らかそうな髪に手を触れたくなって、挙句の果てには何だか胸が痛いような、締め付けられるような気持ちになる。まるで気持ちがジェットコースターだ。こっちは薬では治らなかったらしい。
ほんと、何なんだこれ。いい加減にしろよ。
悔しくて、照れ隠しに理玖の前髪をひっつかんで引っ張った。でも起きない。口がむにゃむにゃと幸せそうに動いた。
「変わんねーよな」
思わずつぶやく。
(俺にとってお前は何なんだろう。)
そして、お前にとっての、俺は―――。
*
「何考え込んでんの、裕太?」
部活も休みで久しぶりの何もない休日の、俺の部屋。なぜか理玖がいて、俺のベッドに座り込んで雑誌を読んでいる。
いつものことだ。―――そうなんだけど。
「んー……別に」
あれからの俺たちは、結局何も変わっていなかった。あの日、あの西日の射す屋上での出来事だけが宙に浮いていて、どこにも繋がっていない。このままふわふわと浮かせたまま、忘れてしまうのが良いんだろうか。それとも俺は、あれをどこかに繋げたいのか。
―――その答えは、たぶん。
「……お前さあ、忘れたふりしてんのか」
「ふりって何の?」
理玖は読んでいた雑誌から顔を上げる。その顔にはいたって呑気なキョトンとした表情が浮かんでいる。
「決まってんだろ、キ―――」
言いかけて、自分でもその単語に動揺した。言葉が続かない。理玖は首を傾げる。
「キ?」
こいつどこまでとぼける気なんだ、と思う。こうなればもうヤケクソだ。
「キスのことだよ、分かるだろ!」
―――だが理玖は、やっぱり理玖だった。
「えっ、あれキスだったの!?」
「はあぁ!?」
まさかそう来るとは。俺は思わず盛大に仰け反った。
「あれがキスだったのかって―――じゃあお前は一体何だと思ってたんだよ!?」
「俺はてっきり、ただぶつかっただけなんだって……だって、裕太がそう言ったんじゃないか」
思わず「信じたのかよ!?」と叫んでしまった。
「ぶつかっただけ、って、そんなわけねーだろ、どうやったらあんな器用にぶつかれるんだ!?」
口ではそう突っ込みつつ、理玖が一切何も気にしていない様子だったのはそれでか、と頭のどこかで納得する。
―――だけど、その間、俺が一人でどんだけ悩んでたと思ってるんだ。
そう恨み言を言ってやろうと思って―――八つ当たりなのは重々承知していたが―――顔を上げて、俺は思わず固まった。
(こいつ、こんな顔。)
理玖の顔はみごとに真っ赤だった。いつものへらへらした笑みと、あの何があっても余裕な表情はどこに行ってしまったのかと思うくらいに。
くらっと眩暈がする。
(何なんだよ、反則だろ。)
「ふっ、ふざけんなよ」
「ふざけてないよ。それってつまり、裕太は俺のこと、好きってこと?」
ド直球ストレート。でもそう言われて初めて、自分の中で何かがすとんと落ちて行った。案外俺も、人のこと言えないのかもしれない。
「ああそうだよ、悪かったな! ……で、どうなんだよ」
「え?」
「その……感想は」
「わ、分かんないよ」
そりゃそうか、と思う。急に同性の幼馴染に好きだって言われて、返事をしろって言われたら、さすがの理玖も困るだけだよな。
「―――だからもっかいして」
耳を疑った。
「は?」
「だって裕太がぶつかっただけだ、って言うからずっとそう思ってたんだ。もっかいしてくれないと分かんないだろ」
「はああ?」
こいつ、何かやっぱりズレてないか。
「もう一回すれば分かるのか?」
「うん」
理玖は妙に真剣な顔で頷く。
もうどうにでもなれだ。
理玖のシャツの胸ぐらをひっ掴んで引き寄せる。ヤケクソで、噛みつくみたいにしたキスだったけれど、やっぱり理玖の唇は柔らかかった。微かにさっき飲んだオレンジジュースの香りがした。
唇を離して理玖の顔を見ると、真っ赤だった。でも、唇がむにむにとまるで笑い出しそうに動く。あっと思った。
「お、お前わざとだな!?」
その途端、理玖は堪えきれないように笑い出す。
「こいつ!」
逃げようとする理玖を追いかける。小さい頃よくやったみたいにじゃれ合って、捕まえて、抵抗するのを組み敷いて。
「だって、もう一回したかったんだ」
組み敷かれた理玖が、息を切らせながら言う。
「それにさ、答えなんか、分かり切ってるだろ。俺はずっと裕太が好きだったんだから」
「―――は……? ええ?」
やっぱりこいつは分からない。いつだって理解出来ない。そこだけは昔から変わらない。
押さえ付けた手に感じる骨張った堅さと重なり合った体の重みは、もう子どもの頃とは違うけれど。
「裕太こそ、本当にいいの。もう俺たち、そんな子どもじゃないよ」
「ああ」
その後のキスは、どちらからしたのかよく分からなかった。
二
冬が来た。日に日に昼間が短くなって、夜が長くなっていく。
朝、いつも通り理玖と一緒に通学路を歩きながら、俺はこっそり理玖を盗み見た。
理玖はわざわざ日陰の、舗装されていないところを選んで歩いている。子どもっぽいことに、霜柱を踏むのが楽しいらしい。そういうところは本当に小学生のままだ。
(俺はこいつとどうなりたいのかなあ……。)
秋の頃、色々あって理玖とキスした。一体どうしてそうなったのかよく分からないまま、それでもそれが自然なことだと思えた。
あれから二か月、俺たちは付き合っている―――のだと思う、たぶん。
たぶん、というのは確証がないせいだ。そもそも付き合うっていうのは、どういう状態をさすのだろう。お互いがお互いを好きで、一緒にいれば、それはもう付き合っているってことになるんだろうか。それまでと何も状況が変わっていないとしても?
そもそも俺たちの場合、毎日一緒にいるのが当たり前の状況がずっと続いて来たせいで、今更何かを変えるなんてことはとても難しい。急に毎日メロドラマみたいなセリフを言えと言われたってそんなのは無理だし、そもそも自分の気持ちの何がいつ変わってこうなったのかも分からない以上、自分が何をどう変えたいのかも分からない。
それでも何か変えたいような、変えなくてはいられないようなもやもやをずっと抱えているのも確かだった。具体的にどうしたいのかは分からなかったけれども。
「裕太ぁ、ここすごいよ、まだ誰にも踏まれてない」
嬉しそうに指をさす理玖に、まったくお前は、とため息をつく。それでも俺も理玖と一緒になって霜柱を踏んで歩いた。今朝はだいぶ寒かったから、霜柱はゆうに五センチを越えている。スニーカーの下でざくざくと小気味よい音を立てるのは確かに楽しい。
「―――あ」
足を滑らせた理玖の手をとっさに掴んだ。
「ごめん、ありがと」
周囲に誰もいなかったので、理玖の手をそのまま自分の手と一緒にポケットに突っ込んだ。理玖が何も言わないので、俺も何も言わない。今朝はこんなに寒いというのに、手袋もしていない理玖の手は温かかった。俺の手はたぶん冷たい。
早朝の道、最初の人に会うまではそのままでいた。
こんな風に、たまに手をつなぐことならある。でもそれは前にも多少はあったことだ。
あとは、そう、たまに誰もいないときに目が合うと、キスをすることもある。でもそれだって、とても小さい頃にまで遡れば、やっぱりあった。
ただしその度に感じるこの恥ずかしさというか、何か悪いことをしているような後ろめたい気持ち―――、これは前にはなかったものだ。だとしたらたぶん、この罪悪感の正体が、今までと違う「付き合うこと」の正体なのかもしれない。―――って、そんな風に言うとあまり良いことじゃないみたいじゃないか。
その日は終業式だった。学校が終わるのは早かったけど、部室の大掃除があって帰る頃にはすっかり暗くなっていた。昼過ぎに降り出した雪は本降りになっている。この辺りには雪の日に傘をさす習慣はないので、歩くうちに体には面白いように雪が積もった。
「……っくしゅん!」
突然、理玖がくしゃみをした。
「大丈夫か?」
「何だろー、首とか背筋がぞくぞくする」
「そりゃあ風邪だろ」
「ええー、せっかく明日から冬休みなのに」
顔をしかめてそう言った理玖は、すぐに「ああ、そうだ」と明るい顔をした。
「裕太、今日はまだお父さんお母さん帰って来てないだろ? うち寄って行きなよ。裕太に借りたゲームも返すし」
「……ああ、じゃあ少しだけ」
「ただいまぁ」
理玖がドアを開けると、いっきに暖かい空気に包まれた。夕食のいい匂いがする。
「おかえりー、リク、裕太くんも」
奥から柔らかな女性の声がした。
「えっ何で分かったの? 俺が裕太を連れて来たこと」
「音で分かるのよ。足音とか……あとはリクのうきうきした声の調子でね」
「こんばんは、朝子さん、お邪魔してます」
奥に声を掛ける。朝子さんというのは理玖の母親の名前だ。俺は子どものころからずっと、朝子さんとか朝子おばさんと呼んでいた。
「―――リク、俺ここでいい。雪で汚したら悪いし、ゲームだけ受け取ったら帰る」
「えー、いいじゃん、上がっていきなよ」
理玖と押し問答をしていると、ビーズののれんをくぐって奥から朝子さんが出て来た。
「何遠慮してるの、裕太くんなんて、半分うちの子みたいなものでしょうが。さっさと入んないと風邪引くよ」
朝子さんはにこにこ笑って言う。
「雪をざっと落としたら、早く上がんなさい。あ、分かってると思うけど、鍵は上だけね」
そう言い残して、さっさと奥に入ってしまう。朝子さんと理玖はよく似ているので、俺は何だか逆らえない。
服の雪を落として洗面所に直行し、タオルを借りて頭を拭いた。
「何か冷たいと思ったら、マフラーの雪が首から中に入ってたみたい」
コートを脱いだ理玖が言う。
「裕太ごめん、ちょっと拭いてくんない?」
「自分でやれよ」
「届かないよー」
「……ったく」
タオルを受け取って理玖のシャツの首元を引っ張って広めに開ける。確かに濡れている。
背中に手を突っ込むと、肌の温かさが伝わってきた。
「ひゃう」
「なんだその声」
「裕太、手が冷たいー。手は触れないで、タオルで水だけ拭いて」
「……注文の多い奴だな……」
わあわあ騒ぐ理玖を見ながら、俺は何だか動揺していた。
―――まただ、この、罪悪感。
「なあに、そんなに濡れちゃったの? じゃあもう、どうせだから二人とも一緒にお風呂入っちゃいなさいな」
扉から顔を出して朝子さんが呆れたように言う。
「はーい」
「えっ」
理玖の呑気な返事にぎょっとした。
「どうかした?」
しかし理玖とその母親に揃ってきょとんと見つめられると、もうどうしようもない。
(てゆーかリク、お前はちょっとは考えろ!)
―――結局、意識してんのは俺だけか。
はー、とため息をついた。
理玖は一体何を考えているんだろう、と思う。そして、こんなにずっと一緒にいるのに、何で俺はこいつのことがこんなに分かんないんだろう、とも。
変わったことと、変わらないこと。変えたいことと、変えたくないこと。
温かい湯気に包まれて湯に浸かりながらぼんやり考えていると、突然顔に湯がかかった。
「裕太ー、見てこれ、すごいでしょ」
なるべく理玖の方を見ないように努力しているというのに、理玖は手を水鉄砲のようにして水を飛ばすことが出来るようになったという要らない報告をしてくる。その上全然出来てないもんだから、俺は気になってしまって無視も出来ないのだ。
「やり方が全然違う、こうだって、こう!」
そうやって見本なんか見せてやったりして、そうしたらやっぱりそのきょとんとした顔にどうしても水を掛けてやりたくなって―――。
「あっ、裕太、やったな! お返しだ!」
「フン、へたくそ! お前のへなちょこな水鉄砲じゃ一ミリも届かないね」
「なにをー! これでどうだ!」
「あっ、お前、手ですくうのはナシだろ!」
―――どうしたってこうなってしまうのは仕方ないのだ。男子だし。となるとやっぱり―――。
「こら、あんたたち静かにしなさい、ご近所に迷惑でしょ!」
―――こうなる。
結局俺の心の中のざわつき以外は何もかもいつも通りなのだった。
向こうが気にしていないのにこっちが意識しているのは悔しくて、俺は最初から最後まで平気なふりをし続けた。
「……すいません」
お風呂を出て朝子さんに謝りに行くと、
「まったくだわー、うちの息子たちは元気が良くって、参っちゃう」
朝子さんはからりとした顔で肩をすくめてくすくす笑う。
「でもね、それくらいで良いの。裕太くん、うちでは遠慮することないのよ」
そう言った目は穏やかなのに真剣で、やっぱり理玖は母親似だと思った。笑ったかと思うと急に真面目になったり、その目がいつも真っ直ぐに俺を見てくれるところ。
食卓にはもう夕飯が準備されていた。理玖の母さんと父さん、理玖、そして俺の分まで。
「今日シチューにしといて良かったわ」
朝子さんがそう言いながら取り分けてくれる。保育園で栄養士をしている朝子さんは料理上手だし、もちろん今日のシチューもすごく美味しい。
それなのに、こんなに温かいのに、食べているうちにだんだん温度も味も感じなくなった。
なぜか、無性に寂しくて。
理玖もその両親も泊まって行けば良いと言ってくれたけど、「うちの親も帰って来るし、俺もそろそろ帰らなきゃいけないから」と言い訳をして、俺は理玖の家を後にした。
冬は暗くなるのが早いせいで実際の時刻よりも遅い時間のような気がしてしまう。家に着いて時計を見て、まだ八時にもなっていないことに気づいて少し驚いた。
鍵を開けて、明かりを点ける。理玖たちにはああ言ったけど、うちは今日は誰もいない。
暖かい理玖の家から帰って来るととても寒く感じるけれど、でもたぶん、こっちの方が俺には合っているのだ。
八時半頃、チャイムが鳴った。
「裕太、泊めて!」
雪の降りしきる中、理玖が立っていた。でも本当は、何だか少しだけ、来ることが分かっていたような気がした。こんなことを言うと、まるで理玖みたいだけど。
「……お前、何で」
「何となく、裕太がひとりでいる気がしたんだ。来てみたら、外に車もないし、やっぱり今日一人だったんじゃないか。そうならそうと言ってくれたら良かったのに」
「……別にどうでもいいだろ」
「よくない」
理玖はひどく真剣だった。
「さっき帰るとき、裕太本当は心の中で『帰りたくない』って言ってたでしょ」
「言ってねーよ」
「嘘だ。俺分かるんだよ、何年裕太のこと見てると思ってんの」
「―――じゃあ俺が今何を考えてるか、分かるか?」
そう言うと、理玖は俺の目を真っ直ぐに見た。その目をちゃんと見ていられなくて、俺は目を逸らす。
「……とにかく、お前は帰った方がいい」
「どうして」
「お前は分かってないからだよ、何も」
言いながら、シャツの上から胸を押さえた。
(まただ。)
たぶん、これの正体は―――。
「…………分かるよ。分かってる」
沈黙の後、理玖はきっぱりと言った。
「嘘つけ」
「嘘じゃないよ」
理玖はそう言って手を伸ばして、俺の頬に触れた。
「あのさ、裕太はどう思ってるのか分かんないけど、前に好きだって言ったこと、俺は本気だよ。あれからこの二か月の間ずっと、手をつなぐのがくすぐったい気がしてたし、キスしたらどきどきしすぎて、吐きそうになったりもしたし」
「いや、お前、そんなそぶり全然……」
驚いてそう言うと、理玖は首を傾げた。
「分かんなかったの? 裕太って案外鈍感だよね」
―――やっぱりこいつは分からない。
「俺はお前が、ずっと前と同じでいることを望んでるのかと思ってた」
「それはこっちのセリフ。裕太は踏み込まれるのが嫌なのかと思ってた」
「なんだそれ。人の気も知らないで―――」
今度はこっちから理玖の頬に触れる。俺の指は冷たいから、理玖の身体が一瞬強張った。
「首のとこ、また濡れてる」
「……ん」
マフラーを取って首筋の滴に触れると、微かに震える。
理玖は目を伏せて、そのままぎこちなく体を預けてきた。
「本当に、いいのか?」
「うん」
その腕を取って、玄関に鍵をかけた。
「―――いや、ちょ、ちょっと、待てって」
「何で?」
ベッドの上では理玖が既にセーターを脱ぎ終えて、シャツのボタンをはずし、その上ズボンにまで手を掛けようとしている。俺は慌てて止めた。
「何でってお前、心の準備とかないわけ」
「もうしすぎて疲れたー。裕太は? まだ準備が必要なの?」
首を傾げる理玖に、俺は言葉に詰まった。深呼吸する。
「―――なあ理玖、同じことしてても今までと違うのはなんでだと思う?」
曖昧な質問だったが、理玖は迷わなかった。
「意味が違うから」
そんなことも分からないのか、とでも言いたげな不思議そうな顔で言う。
「同じ行為でも、もう意味が違ってるからだろ? 全部メッセージなんだ。手を繋ぐのも、触れるのも……前は全然平気だったのに、あれから裕太が俺に触るたび、裕太が俺を好きって言ってくれてるみたいで、ずっとドキドキしてた」
そう言って俺の手に自分の手を重ねた。子ども体温の理玖の手のひらから、じんわりと熱が伝わる。
「裕太もドキドキしてた? だったらそれは、毎回俺が、裕太が好きですっていう気持ちをこめて触ってたから、それが伝わったんだ。ね!」
「お、お前ってほんと、恥ずかしいことを平気で言う奴だよな……」
「そうかな」
「そうだよ。くすぐったくなる」
そう言って、お返しとばかりにくすぐってやった。理玖の弱点は首だ。くすぐったがりの理玖はすぐに笑い出し、俺の腕から逃げようとする。何だかこういうことが、二か月前にもあったような気がする。
じゃれ合ううちに、俺が理玖を組み敷く格好になる。これも前と同じ。
でも、ここからは二人とも初めてだ。
服の上から緩やかに勃ち上がったお互いが触れ合って、こすれた。思わず息が漏れた。
理玖の目が少し潤んでいる。苦しいのとも眠そうなのとも、今までに見たどの表情とも違う表情。
ほんの少しだけ開いているその唇に触れたい衝動を抑えられなくなって、唇を落とした。
「―――ん」
舌で理玖の柔らかい唇をこじ開けると、理玖が小さく声を漏らす。抵抗はしなかった。舌で歯列を確かめるようになぞって、柔らかく舌を絡めた。そのまま感触を楽しんでいるうち、理玖の息が喘ぐように浅くなった。その反応に煽られて、貪るように吸い上げる。理玖が小さく声を上げたが、やめることは出来なかった。
(理玖が欲しい、全部。)
好きだと自覚したときからずっと不安だったのは、変わってしまうことだった。それなのに、変えたいと思うことも止められなかった。ずっと、その二つの間で引き裂かれて苦しくて。
でもいざこうなってみると、いくら触れても全然足りなかった。喉が渇いてどうしようもないみたいに、触れたそばからもっと欲しくなる。手で触れれば唇で触れたくなるし、唇で触れると今度は甘く噛んでみたくなる。
―――たぶんこの欲求が、あの罪悪感の正体だったんだ。
「ゆ、裕太」
ようやく唇を離すと、理玖は喘ぐように息を吸った。
「死ぬかと思った」
そう言って笑ったくせに、理玖はすぐにもう一度、自分から唇を合わせてくる。
「裕太の唇って柔らかい」
「そんなことない」
「それに、甘い」
「それはお前だろ」
理玖の優しくついばむみたいなキスがもどかしくて、お返しとばかりにその唇を甘噛みしてやる。でも一度そうしたらまた止まらなくなった。唇だけじゃない、耳も、首筋も、鎖骨も、どこもかしこも唇で触れたくなって、手当たり次第にキスを落とす。
シャツをはだけて胸の先端の突起に触れると、理玖はまたくすぐったがって逃げようとする。それを押さえつけ、丁寧に舐めねぶると突起がくくっと立ち上がって硬くとがった。それが可愛くて、執拗に舐めたり弄ったり、軽く噛んだりしていると、それまでくすぐったがって笑っていた理玖の声が急に艶を帯びた。
「あ、ゆ、裕太、それ……ちょっと、変な感じ……」
「どんな」
「じんじんする」
「じゃあこれは?」
ちゅ、ちゅ、とわざと音を立てて吸ってやると「あっ」と小さな声を上げて何かをこらえるように唇を噛んだ。
「―――は、」
濡れたような吐息を零す。
「なあ、理玖、これは?」
「あ……裕太、だめ……っ」
理玖の声がこんなに甘いなんて思わなかった。もう一度キスをしながら、空いている手を下にのばして理玖の勃ち上がっている部分に触れると、理玖はびくっと身体を震わせた。さっきよりもずっと硬くなっている。俺だって人のことは言えないけれど。
我慢できなくなって、理玖のズボンと下着を一気に引き下ろした。自分も脱ぐ。
理玖の上に覆いかぶさり、片手で体重を支え、もう片方の手で理玖のそれを自分のと一緒に握り込む。お互いの敏感になった先端同士が触れ合って、さざなみのように快感が広がった。
「あ……っ」
理玖は声を上げてしがみつくように俺の首に手を回した。
「いいか?」
「うん……」
自分でするときの要領で、握り込んだ二人のものをしごいて擦り合わせる。触れ合った部分からお互いの熱が伝わり、疼くような快感が広がった。特に敏感な鈴口は擦れるたびに痺れるような快感が走る。
透明な液が先端から滲みだし、指を濡らす。それを指で塗り広げると、動きが滑らかになってじわじわと快感のスピードが増した。
次第に息が上がっていくのは動いているせいだけではなかった。理玖も俺にしがみついたまま切なげに喘ぐ。
「裕太、俺もうやばい……」
いってもいい? と泣きそうな声で訊かれて、頷いた。正直俺ももう、もたない。
理玖から熱くほとばしったものが手の中に溢れるのを感じながら、俺もほぼ同時に果てていた。
*
『裕太、お願い、もう……っ』
『どうしてほしい?』
『裕太の意地悪……』
理玖は蕩けそうな瞳で俺を見上げる。
『お願い、いれて』
理玖の乱れた髪が汗で額に貼り付いている。俺はその額にキスをして、理玖の後ろに自分のものをあてがい、ぐっと腰を進め―――。
ハッと目を開ける。あたりにはティッシュが散乱していた。どうやらあれから、気が抜けてうたた寝してしまっていたらしい。隣を見ると、理玖が横たわって安らかに寝息を立てていた。
夢か。それにしても、なんてこと―――。
起き上がろうとして、自分のものがまた勃ち上がっていることに気付いてぎょっとした。
(さっきしたばっかなのに元気すぎだろ。)
そうだ、俺は、ついさっき、理玖と―――。
不意に、脳裏に理玖の蕩けそうな瞳と甘い声が蘇って、俺の下半身は更に反応を増した。
慌ててトイレに行こうとして、ベッドから降りる。そのとき、後ろから手が腕に触れた。
驚いて振り向くと、眠っているとばかり思っていた理玖が目を開けてこちらを見ている。
「もう一回する?」
「え」
「俺も裕太にしてあげたい」
「い、いいよ」
慌てて首を振る。でも理玖は引かなかった。
「もらいっぱなしは嫌だ。でも手とか口じゃ、上手く出来る気がしないし、だから……」
意を決したように言う。
「俺に入れて」
「いや、そんな無理はさせらんねーって」
「無理じゃない。お願い」
―――これは、まだご都合主義の夢の中なんだろうか。
「……お前、ちゃんと分かって言ってるか?」
「うん」
理玖はためらいもなく頷く。
「だけど―――」
俺が躊躇っていると理玖は笑った。それ以上何か言う代わりに、唇で唇をなぞるように触れる。そんな風にされると、それに応えてキスをせざるをえなくなって、そうするとやっぱり止まらなくなって。
理玖を抱きしめて、もう一度ベッドに寝かせた。
「きつかったらすぐ言えよ」
「ん」
人差し指を入れ、少しずつ慣らすようにゆっくりとほどいていく。少し慣れたら中指、それから薬指も。理玖ははじめ目を伏せて少し辛そうにしていたが、人差し指が中の突起のようなところを探り当てたとき、それまで苦しそうだった吐息が、突然はっきりと熱を帯びて濡れた。
「あ、ああっ、裕太、そこ、いい……っ」
「ここ?」
「んっ、そ、そう……」
「こうか」
「やあっ」
余裕のない理玖は珍しい。もっとそういう声が聞いてみたくて、その周りを指先でかき回すようにいじってみる。
「だ、だめ、そんなにしたらぁ……っ」
泣きそうな声で言って、いやいやをするように首を振る。
「や……っ、あ、頭、おかしくなりそう……裕太ぁ」
切なげな声を聞いていたらたまらなくなって、指を抜いて自分のものを理玖の後ろにあてがう。
「いいか」
「うん」
あてがったものにぐっと力を入れると、柔らかくなった理玖のそこは初めてにもかかわらずすんなりと俺を迎え入れた。
無理をさせないように、浅くいれてそっと動かす。理玖の中はきつくて熱く、それだけで、もう、いけそうなくらい良かった。
「俺、もうこのまま、いきそう……」
「裕太、俺は……っ」
熱に潤んだ目で理玖が俺を見る。
「ちゃんと、裕太が、欲しい。奥まで挿れて……お願い……っ」
泣きそうな声で言われて、理性が吹っ飛んだ。深くキスをして理玖の力を抜きながら、ぐっと腰を進める。熱さときつさに頭がくらくらした。理玖は震えるような吐息を漏らす。
「大丈夫か」
理玖はこくんと頷いて俺を見上げた。
「裕太、好き」
「……っ」
いきそうになるのをすんでのところで堪えて、理玖を抱き締めた。身体を密着させたまま、腰を動かす。突き上げると、理玖が声にならない声を上げて仰け反った。理玖の硬くなったものが俺の腹に当たってこすれる。そういう反応につられて、どうしても動きが速くなってしまう。
「リク、無理は……っ」
「だいじょうぶ……すごく、気持ちいい……」
「―――くそ、無理だったらちゃんと言えよな……っ」
自分に毒づき、動きを速める。傷つけないように優しくしたいと頭では思っても、衝動に抗えない。体は激しく理玖を求めていた。
「ああ、あ、いい……っ、裕太……裕太ぁ」
名前を呼ばれるたび、甘酸っぱさがせり上がるように身体中を満たした。下腹部に眩しいような熱が溜まっていく。寄せては返す波のような快感の、間隔がどんどん短くなる。
理玖が心配で、無理をさせたくない。ただ優しく、穏やかに快感を与えてやりたい。―――それなのにどうしようもなく欲しい。押さえつけて際限なく奪ってしまいたい。
この感情が友情の延長線上にあったものなのか、どこかで決定的に切り替わったのか、それは分からない。分かるのは、俺はきっともうこの熱を自分から切り離せないということ。
「リク、俺、もう限界かも」
「いいよ、裕太、きて……っ」
許されて、上り詰めた興奮を解き放つ。同時に理玖が小さく声を上げて俺の肩にしがみついた。その身体が大きく仰け反って震える。
二人でシーツの上に崩れ落ちた。固く抱き合い、しっかりと手を繋いだまま。
シャワーを浴びて布団に潜り込むと、心地よい眠気が襲ってきた。冷たい夜はもう終わりに近づく時間だ。理玖は俺の腕に頭を載せて眠そうに目をこすっている。子ども体温の理玖の体は温かかった。
「裕太がしてくれることって全部いい。裕太ってどうして、俺がしてほしいこと、全部わかるの」
理玖が、とろんとした顔で俺を見る。
―――そんなの、俺がお前に聞きたいくらいだ。いつだって、お前の方が俺のこと知ってるような気がするんだから。
そう言う代わりにまだうっすらと湿り気の残る髪にキスをして、頭を引き寄せて抱き締めた。
「……裕太、やっぱり俺熱があるのかも。今すごく、体中が熱い……」
「それ、俺にもうつったみたいだ」
そう言うと、理玖は笑った。
「じゃあ、せっかくの冬休みなのに二人とも風邪っぴきだ。お揃いだね」
「そんなお揃い要らねーよ」
顔を寄せて笑い合って、それからどちらともなくキスをして、しんしんと雪が降る夜の底で、二人、固く身を寄せ合って眠った。
俺と理玖、二つの温度が溶けあって、ちゃんと一つになるように。