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霧と観葉植物

冬の朝、目を開けると同時に、ふとある予感がした。

 俺はベッドから起き上がり、リビングの椅子の背に無造作に掛けてあったダウンジャケットを羽織って外に出る。首都圏の外れにあるこの街は霧の多い街だ。昨夜の濃霧注意報のとおり、今朝も霧が出ていた。そのせいで、隣の家の輪郭すらうっすらとしか見えない。

しっとりと水を含んだ冷たい空気に包まれながら足早に庭の飛び石を渡り、ポストを開けて新聞を取る。それから、ちらりと門の外に目をやった。

「―――やっぱり」

 思わず俺はつぶやく。門のすぐ外、門扉に続く石段の真ん中に、観葉植物の鉢がひとつ置かれている。昨夜俺が病院から帰ってきた時は確実になかったものだ。いや、眠りにつく直前、日付が変わる頃にも確認したはずだが、こんなものはなかった。

(ということは、午前0時過ぎから6時半の間……)

 その六時間半の間に、誰かが置いたのだ。もうこれで何度目だろう。

 俺は門扉を開け、しゃがみこむ。新聞を脇に挟み、鉢を両手で持ち上げると、光沢のあるやや細長い葉がさらさらと揺れた。これはスパティフィラムだ。濃い緑色の葉の中に、白い清楚な花が咲く観葉植物。鉢は直径20センチメートルくらい、高さは50センチメートルくらいか。今日のはまだ良い方だ、と思い、そんなことに安堵する自分にため息をつく。この間など、俺の背丈ほどもあるベンジャミンが置かれているのを見た時はどうしようかと思ったものだ。

「……寒かったよな」

 思わずそう鉢に声をかけていた。今は二月の終わりで、明け方はひどく冷える。霧の出る朝は余計だった。スパティフィラムは寒さに弱いのだ。

 うちの石段上に置かれている以上素通りするわけにもいかないから、と誰にともなく言い訳をしながら、とりあえずスパティフィラムの鉢を家に持って入った。南向きの出窓に置いてやろう、と思う。

水遣りが必要か確かめようと土に手を触れてみたとき、冷え切った指にわずかな温もりを感じた。表面は冷えているが内部にまだ室温が残っているのだ。ということは、置かれてから時間があまり経過していないということだ。

土は適度に水を含んでいたので、霧吹きで葉水だけを与え、レースカーテン越しに光が当たるように調整した。隣には件のベンジャミンが置かれている。こちらは環境が変わったことで葉が落ちてしまっていたのが、ようやく止まったところだ。ほかに、アレカヤシが1鉢とシャコバサボテンが2鉢。これらは全て、元からうちにあったものではない。つまり、観葉植物がうちの玄関先に置いて行かれるのは、これで5回目ということになる。

「―――誰が何のためにやってるのか、全然わからないんだ」

 午前の診療の後、昼食の弁当をつつきながらそう言うと、同じ総合病院の研修医仲間の高石と南は首をかしげた。

「うーん、確かに、そんな話は聞いたことがないなあ」

 おっとりと高石が言う。

「だろう? 正直気持ち悪いよ」

「動物とかなら、たまにあるみたいだけどね」

「動物?」

「ああ。犬とか猫とかさ。たまにいるだろ、たくさん飼ってるうちって。そういう家の庭先に、犬猫を捨てる人間が置いていくんだって。少しでも飼ってもらえそうなところにっていう最後の配慮なのかなあ」

 それを聞いて南はフンと鼻を鳴らし、「何にせよ、迷惑な話だな」と言う。

 仕事が終わって、都心の病院から電車に揺られて一時間と少しで最寄り駅に着く。研修医は激務と相場が決まっている。家に帰り着いたのは夜十一時を過ぎていた。帰るなり風呂に入って、特に興味もないテレビをつけ、冷蔵庫からビールを出して飲む。見るともなしに観葉植物を眺めた。

「……お前たちは捨てられたのかなあ」

 だとしても、なぜうちの前に置かれていたのかが分からないし、なぜ一度に1鉢ずつなのかも分からない。それに皆、捨てられるにしては妙にいきいきとして葉のつやが良いのも気になった。この様子なら、おそらく適正な環境を与えられて注意深く育てられていたはずだ。そんな人間が捨てたりするものだろうか。分からないことだらけだ。

「……とにかくこのまま続いたら俺も困るし。何とかして犯人を捕まえてやめさせないと」

 それからの半月は、仕事に忙殺されているうちに何事もなく過ぎていった。

 「社畜」という言葉がある。家畜をもじって会社にこき使われるサラリーマンを皮肉った言葉だが、それでいくとさしづめ俺は「医畜」といったところか。そう言って笑うと、

「でも、お前は自分から進んでそうなってるところがあるだろう」

と南は言う。南とは休憩時間に病院の屋上でよく会った。俺は外科で南は精神科と、科は違うが、大学からの付き合いだ。彼の歯に衣着せぬ忌憚のない物言いは一部からは敬遠されていたが、俺はむしろ好ましく思っていた。

「確かにお前は仕事が出来るよ。皆に頼りにされて、そもそも多い仕事がさらに増えるってのも分かる。でもお前の場合、それだけじゃないだろ。むしろ休むことを怖がってるみたいに見えるな」

「別に、そんなことは……」

「ないって言えるか?」

「……」

「昨年、お前はいっぺんにいろいろ失くし過ぎた。気持ちは分かるけど、そのままじゃ自分自身までなくすぞ」

「……カウンセリング紛いの真似はよせよ」

 俺は笑う。少し無理な笑顔だったとは思うけれど、南はただ肩をすくめた。

「いつでもしてやるけど? ただし保険外で」

「必要ないね。あっても知り合いになんかかかりたくない」

 そう言うと南は笑った。それから「休憩時間も終わりだな」とつぶやき、缶コーヒーをごみ箱に投げ入れると、ひらひらと手を振って去って行った。残された俺はぼんやりと眼下の街を眺めた。陰鬱な空のもと、どこまでも広がるコンクリートの街。

 ―――仕事。やることがあるうちはそれに集中していられる。でもそれがなくなったら、俺はあの広い家に一人きりで、一体何をして過ごせばいいのだろう。

 それを考えると、微かなぶぅんという音が耳の奥で聞こえた。耳鳴り。一人で静かすぎる家にいるときの、あの微かな唸り。普段は意識していなくて聞こえていない、部屋の電気製品たちの発する微かな音のような。

 家に帰るとやはり十一時を過ぎていた。さっさと風呂に入って、寝る前に天気予報を見た。それによれば明日の朝この辺りは濃霧らしい。

(もしかしたら……)

 明日の朝来るかもしれない、と思う。あれから俺も少し、慣れない推理というものをしてみたのだ。俺はとりあえず目覚まし時計を三十分早くセットして眠りについた。

 果たして、それは来た。

 濃霧の中、慎重にゆっくりとこちらへ向かって歩いて来る小さな足音。

新聞と宅配の業者以外、うちに来客など来ない。しかもこんな早朝に。だとすれば、うちの前に観葉植物を置いていく犯人に違いなかった。俺はそっと石塀の陰に潜み、塀の上部に装飾的に開けられている小さな穴から様子を伺う。

俺の推理によれば、犯人が植物を置いていくのは霧の出る日に限られる。そして、時間は俺がいつも新聞を取りに外に出る六時半の少し前。これは、毎回置かれている植物の土にかすかな温もりが残っていることから推理したものだ。

(当たりだな)

 俺は思う。時計は午前6時20分を指している。

そして、もう一つの推論は、犯人はおそらく近所の人間だろうということだった。俺が新聞を取りに出る時間が分かっていて植物を持ってきているように思われるし、だとすればそんなことを知っているのはごく近所の家に限られる。それに、植物の鉢はそれなりに大きいものもあったから、遠くから持ってくるのなら車が必要だが、この辺りは昔からの静かな住宅街で早朝に知らない車が入ってきたら目立つし、眠りの浅い俺が家のそばに車が停まって気付かないはずがないから。

まだ薄暗い早朝の濃い霧の中、その人影はどんどんうちに近づく。覗き穴は小さく、その詳細は分からない。人影は門扉に続く石段にしゃがみ込むと、抱えていた何か大きなものをとても慎重に―――ことりと置いた。

「おはようございます。うちに何か用ですか」

 石壁の陰から姿を現した俺に、人影は一瞬凍り付く。それからさっと踵を返した。逃げる気だ。

「あっ、こら!」

 考えるよりも前に、手を伸ばしていた。かろうじて手首をつかむ。驚くほど細い。

「わっ! す、すみません、分かりました、逃げませんから……」

 透き通った声だった。見下ろすと、色素の薄い茶色の瞳が怯えたように俺の目を見返していた。

「―――子ども?」

 俺は呆気にとられてしまう。十四、五歳といったところか。瞳と同じ色の髪に、まだ幼い線を残した輪郭。ジャージの上下の上にウィンドブレーカーを羽織って、足元はスニーカーという、近所をランニングする時のような恰好をしていた。観葉植物を家の前に置き去りにしていく犯人は、まだあどけなさの残る少年だったのだ。

「君は、どこの子? なぜこんなことを?」

 沈黙が降りる。彼も俺も困惑していた。白い息だけが濃い霧に溶けていく。

 逃げる様子はなかったので、手を離した。玄関先でしゅんとうなだれている少年をどうしたものか考える。この様子を近所の人に見られでもしたら、俺が子どもをいじめているように誤解されるかもしれない、と思う。

「……とりあえず入って。事情は中で聞く」

 そう言って家の方を指さすと、大人しくうなずいたが、足元の鉢を気にしている。

「ドラセナか……」

 ため息をつく。ドラセナ・マッサンゲアナ。別名幸福の木。人気の観葉植物だ。そして、多くの観葉植物と同様、冬が苦手。俺がしゃがんでその青い陶器の鉢を抱え上げると、少年はどことなく嬉しそうに俺を見た。

「ここは寒いから、とりあえず中に持って入るだけだ。ちゃんと持って帰ってもらうからな」

そう釘をさすように言って片手で門扉を閉めると、家に向かった。少年は大人しく後ろをついて飛び石を渡って来る。玄関を入るときには上着を脱ぎ、スニーカーを脱いだあとには、かがんできちんと向きを直している。きちんとした礼儀正しい子だと思った。だとすれば、なぜこんなことをするのかが余計気にかかる。

 家で話すと言っても、滅多に客など来ない家のことで、客間の応接ソファは母親の葬式が終わって以来掛け布をしたままだし、自分が普段使っているリビングルームを兼ねたダイニングキッチンに通すしかない。とりあえずダイニングテーブルの椅子をすすめてこちらも座ると、少年は素直に頭を下げて腰を下ろした。

 外の薄暗さに慣れた目には白々とした蛍光灯の光がまぶしいのか、それとも緊張しているせいか、彼はしきりに大きな目をぱちぱちさせている。中学生だろうか。それにしては静かな子どもだと思う。色白で華奢、少し長めでさらりと額を覆っている髪も、大きな目も、色素が薄く茶色がかっている。どこからともなく爽やかな花のような香りがするのは、見た目に似合わず香水でも使っているのだろうか。だがそれは、なぜかひどく懐かしい匂いだった。

「……怒っていますか」

 震えた声で訊かれて、なんと答えたものか迷う。

「怒ってはいないが」

考えた末に結局そう言うと、途端にぱあっと顔が明るくなる。

「本当ですか」

「ああ。でも、理由が知りたい。あと、こういうことはもうやめるって約束してほしい」

 もうやめる、のところでまたしゅんとうなだれる。感情が素直で分かりやすい。一回りも下の子どもと話すのはひどく久しぶりで、目の前でしゅんとされるとどうしていいか分からなかった。

「それで。君はなぜこういうことをするんだ」

「この子たちを、あなたに育ててもらいたくて」

 少年は部屋の隅に置かれたドラセナの鉢に目をやって言う。この子たち? 育ててもらいたい? いろいろと突っ込みたいところだが、俺は深呼吸して自分を落ち着ける。

「だから、それはなぜ? それに、どうしてうちなんだ」

「僕が自分の部屋で育てていたんですが、今度遠くに引っ越すことになって。両親は植物があまり好きではないので、引っ越し先に持っていくことは許さない、燃えるゴミの日に捨てろと言われて……それで。このおうちの庭には木がたくさんあって、綺麗に手入れされていたので―――」

「好きで育てていたんだろう? 面倒を見きれなくなったから人に押し付けるなんて、無責任じゃないのか」

 つい辛辣な口調になってしまう。少年はしゅんとうなだれた。言い訳をしないということは肯定だろうか。そう思ったとき、ふとドラセナの鉢の根本にささったプラスチックのカードに目が留まった。

「『祝開店』? これ、君が買ったんじゃないのか」

「北通りに少し前に開店したスーパーがあるの、ご存知ですか。あそこの人が、開店祝いでもらったけれど枯れてしまったからもう要らないと言ってごみ袋に入れていたので、貰って来たんです」

「枯れた観葉植物を?」

「はい、まだかろうじて生きていたので。部屋で温度と湿度を管理して、肥料をやって……そうしたら持ち直してくれたので」

「この間のスパティフィラムは?」

「あれは、根詰まりで枯れて道端に捨てられてたんですけど、一部はまだ生きていたので、持ち帰って植え替えて、しばらくしたら元気になって……」

「もしかして、君が育てていたっていう、ここに運んできた観葉植物は全部そうやって捨てられたのを拾って育てたもの?」

「はい……すみません」

 少年は華奢な身体をさらに縮こめるようにして言う。

「結局面倒を見きれないのに、手を出すなんて無責任だったとは思うんですけど」

俺は思わずため息をついた。それは自分自身に対してだったのだが、少年は勘違いしたのかびくりと身を震わせる。

「どうしてそれを早く言わないんだ」

「すみません」

 子どもは再び縮こまってしまう。俺は首を振った。

「違うんだ。ごめんな」

「―――え」

「無責任だなんて言って悪かった。撤回する。だけど、どうしてうちなんだ。庭に木がある家なんてこの辺には腐るほど―――」

「あっ、あの、笑いませんか」

 少年は妙に真剣な目をして俺を見つめた。その目に何となく気圧されるようなものを感じて、俺はうなずく。

「あなたなら、きっと大事にしてくださると思ったんです。この家の庭の木々は、いつも―――とてもきれいに、うたっているから」

「―――は?」

「信じてもらえないとは思うんですけど」

 そう言って、少年は透き通った明るい茶色の瞳を俺に向けた。

「僕には植物のうたが聴こえるんです」

「うた?」

「はい。植物はみんなそれぞれのうたを持っていて。生まれたところのことばとリズムでうたうんです。元気なものほど大きなこえで、きれいにうたいます。言葉も人のとは違いますし、歌といっても、人の歌う歌とは少し違う、もっと原始的な音の連なりのようなものなんですけど」

 俺が呆気にとられているのを見て、少年は申し訳なさそうに微笑んだ。

「すみません、上手く説明できなくて。これじゃ分からないですよね」

 そう言って、心配そうな顔になる。

「気持ち悪いと思われましたか」

「いや。少し驚いただけだ。ええと……つまり君は、うちの庭木の状態が良いと言ってくれているんだろう?」

 我ながら、なぜそこで「意味が分からない」と言わなかったのだろうと思う。俺は不思議と彼の言葉をすんなりと受け入れていたのだ。

「はい! いつもここを通るたび、とてもきちんとお世話をされているのだなあと思っていました」

 少年は顔を輝かせる。

「君はこの辺の子か? 中学生?」

「この家の裏手の、沢木といいます。沢木航也。中学3年生です。……ご存じなかったんですね……」

 また少ししょんぼりさせてしまったようだった。

「ごめん、今までも会ったことあったかな」

「はい、地域の行事で、何度か。去年のお葬式も……」

 彼は言いにくそうに言う。

「そうか。ありがとう」

 大学の頃は家を出て一人暮らしをしていたし、近所づきあいはずっと母親に任せきりにしていたせいで、近所といえどもあまり名前と顔を覚えていなかった。悪いことをしたと思う。

「僕はお名前を知っています。たつきさんです。川野達樹さん」

「当たりだ。すごいな」

 そう言うと、色白の頬を少し染めて嬉しそうに笑った。

「達樹さんは、植物がお好きなんでしょう?」

 そう言われて、少し考える。

「好き―――になるのかな。あまり意識していなかった。植物の世話は、昔取った杵柄みたいなものでさ。特別なことはしてないんだ。ただその季節季節で最低限必要なことをしているだけで」

子どもの頃に、田舎の祖父に教わった通りのことをしているだけ。祖父は植物と名のつく全てのものが大好きな人だったから。そう言うと、少年―――航也は遠くを見るような目で、「お祖父さんですか」と言った。何かを懐かしむような不思議な目で。それから、ありがとうございます、とおもむろに頭を下げる。

「僕の話を、笑わないで聞いてくれた。こんなこと話せたの、達樹さんが初めてです」

 そう言ってにっこりして、不意に立ち上がる。

「あの、向こうに観葉植物がありますよね? 見せて頂いてもいいですか」

「ああ」

 俺がうなずくと、航也は先に立って奥の部屋に通じるドアを開けた。戸が閉まっているのになぜ植物の場所がわかったのだろう、と思って、そういえばこの子には「うた」が聴こえるのだった、と思う。そして、すっかりそれを受け入れている自分を不思議だと思う。

「わあ、やっぱり大事にしてくださってますね!」

 航也の歓声が聞こえて、俺も奥の部屋に入った。今はすっかり片付いているが、そこは親が寝室に使っていた部屋だ。出窓に並べられた植物を見て、航也は嬉しそうに微笑んでいる。

「皆とても元気で、幸せそうです。ちょうど、今日の鉢で最後だったんです。達樹さんなら安心してお願いできます」

 礼儀正しく、人懐こい笑みに、思わずうなずいてしまいそうになって、いや、待てよ、と思う。

「いや、だから、俺はこれ以上引き受ける気はないって言って―――」

 そう言いかけて、再びしゅんとされそうな気配を感じて慌てた。

「……まあ、誰か引き取り手が見つかるまでなら、置いておいても構わないけど」

航也は嬉しそうな表情になる。「よろしくお願いします」と言われて仕方なくうなずいた。内心面倒なことになったと思ったことは否めないが、いつの間にか航也からは最初の緊張の色がすっかりなくなっていて、それはとても喜ばしいことだと思う。

 そろそろ両親も起きる頃だし、学校があるので僕はこれで、と航也が言う。いつの間にか時計は7時を指していた。俺も仕事に行く準備をしなければならない。

「ありがとうございました。引き取り手が見つかったら、また伺います」

 そう言って、でもすぐに出て行かずに少し玄関先でもじもじしている。それから意を決したように顔を上げた。

「あの、もし見つからなくても、また来ても良いですか。本当は以前から、ここの庭の木も近くで見せて頂きたいとずっと思っていて」

「ああ、いつでも。俺がいない時でも、門扉の鍵まで閉めていることはあまりないから、勝手に入ってくれて構わない」

 そう言うと、顔を輝かせた。

「ありがとうございます!」

 勢いよくお辞儀をして、ぱたぱたと遠ざかっていく軽やかな足音を聞きながら苦笑する。仕事以外で誰かと話したのは久しぶりだった。引き戸の外、いつの間にか霧はだいぶ薄くなっていた。

 ダイニングに戻ると、隅に置かれたドラセナの鉢が目に入った。

「結局置いて行かれちまったな」とひとりごちる。

「まあ、貰い手が引き取りにくるまでならうちにいてもいいさ。どうせこの家は俺一人には広すぎるんだ」

 そう独り言をつぶやくと、風もないのにドラセナの葉が揺れたような気がして、俺は少し笑った。あいつみたいに『歌が聞こえる』とはいかないが、まるで返事をしたようだ、と思う。

航也はそれから時々姿を見せるようになった。

俺は相変わらず平日は夜が遅く休日出勤も多かったから、会うのは早朝だ。俺はいつも決まった時間に新聞を取る。そのときに「おはようございます」と声がかかれば、7時までの30分ほどの間だけ、お茶を飲んで話をする。学校の話、仕事の話。俺が航也の歳の頃に読んだ本をちょうど航也も読んでいるとか、そんな他愛もないおしゃべりをして、植物の様子を見て帰って行く。

引き取り手はなかなか見つからないと航也は謝ったけれど、それもいつの間にかどうでも良くなった。植物の世話なんて、一つも五つも同じことだ。

 三月も半ばを過ぎる頃には、声がかかるのを楽しみにするようになっていた。航也と話している時だけは、何だか気がまぎれるような気がしたから。自分が何から気を紛らわしたいのかも、よく分からなかったのだけれど。

「航也は、何かつけてるのか」

 ふと話が途切れた折、俺はずっと気になっていたことを聞いてみる。

「何か、って?」

「香水とか、何か植物の香りがするもの」

「そういうものは、特に何も。どうしてですか?」

「そうか……時々、何だか懐かしい香りがするような気がするから」

「懐かしい?」

航也はきょとんとしている。

航也といるとなぜか、ふとした瞬間、何かを思い出せそうで思い出せないような、不思議な感覚に襲われることがあった。

「俺、ずっと前に航也に会ったことがあるのかな……」

 ふっと口をついて出た言葉に、航也はハッと目を見張る。それからすぐに、少し笑って言った。

「そりゃあ、僕はここで生まれ育っていますし。近所ですから、何度も―――」

「そういう意味じゃないんだ。―――いや、何でもない。忘れてくれ」

 そう言うと、なぜかとても複雑な表情をした。

「達樹さんは、桜は好きですか」

「桜?」

 質問の意味が分からない。

「花のことなら、好きだよ。あんなに綺麗な花は、他にないから」

 それに、桜の花には少し思い入れがあった。気恥ずかしいから言わなかったけれど。

 航也はぱっと顔を輝かせる。色白の頬が少し紅潮した。

「ほんとうですか」

 ああ、とうなずきながら、なぜそんなことを急に訊くのだろうと思ったが、航也は嬉しそうに微笑んでいるだけで、それ以上語るつもりはないようだ。この子はたまによく分からないところがある。

「そういえば、引っ越しはいつ」

 俺は話を変える。

「三月の最後の日曜日です」

 航也は言って、目を伏せた。

「せっかくこうしてお話できるようになったのに、とても残念です」

「―――ああ」

三月の終わり、大きな手術を伴う案件が立て続けに入った。時間がかかる地味な作業と細かな面倒事は全て研修医に回される。終電どころか病院に泊まり込む日が続いた。それ自体は何とも思わないが、航也に何も言ってこなかったから、もしかしたら朝、俺を待っている日があったかもしれないと思うとそれだけが気がかりだった。

(でも、約束しているわけでもないからな……)

 休憩中、そんなことをぼんやり考えていると、南に覗き込まれた。

「ぼーっとしてるな。お前もとうとう花粉症か?」

南は嬉しそうに言う。そういう彼は重い花粉症だ。毎年シーズン前には注射をするという。

「いや。眩暈が少しするだけだ」

「眩暈? おいおい大丈夫かよ」

 南は呆れたように言う。そして目の下を指さして「クマが出来てる」と言った。

「最近特に無理し過ぎなんじゃないのか」

「もともとたまにあるんだ。ちゃんとインフルエンザは全種予防注射してるし、感染症は大丈夫だから。人にうつらなければ、それで」

「そういうことじゃないだろ」

「いいんだ。春先にはいつものことだから」

南はため息をつく。それ以上は何も言わなかった。

春と口に出して、そういえば母親も、そろそろ一周忌だった、と思い出す。仕事も忙しいけれど、長男だから、そちらの準備もしなければいけない。

ようやく激務を終えたのは土曜日の午後だった。昼夜があいまいで仮眠もほとんど取れていなかったから時間の感覚がおかしくなっているが、思えばもう一週間近く家に帰っていない。

 電車の中は午後の金色の陽ざしが溢れていた。こんな時間に電車に乗ることは滅多にないから、新鮮だ。休日の電車は家族連れの姿が目立った。

 ふっと忘れていた耳鳴りがよみがえって、目をつぶる。まだいくつか残っている仕事のことを考えた。

(早くやらないと。―――間に合わなくなる)

 でも何に? と考えて、ああ、もう必要なかったんだ、と思い出す。

 いつの間にか眠っていたらしい。降りる駅の数駅手前で、喉の不快感で目覚めた。厚着をしているのにひどく寒いのは、熱がある証拠だ。

「……俺は風邪を引いていたのか」

 今さらのように気付いて、医者の不養生にもほどがある、と自嘲した。南ならさぞ馬鹿にするだろう。

最寄り駅を出る時には、歩くのもやっとな有様だった。身体が鉛のように重い。頭がガンガンして、心臓の鼓動ですら響くようで不快だった。

『仕事のしすぎよ、お兄ちゃん。独り身なんだから、自分のことは自分で大事にしてあげなきゃいけないのよ』

 気を抜くと輪郭を失いかける意識の中で、この間電話で話した妹の声を思い出す。

『私がそばにいてあげられたらいいけど、子どもが産まれたばかりで手いっぱいだから』

(いいんだ、お前はこれから、ちゃんと自分の場所を大事にしなきゃいけないんだから)

 俺たちの親が俺たちにしてくれたように、生まれてくる子に暖かな居場所を与え、育まねばならないのだから。

父が死んでから、母親は持病を抱えながらもずっと一人で俺と妹を育ててくれた。

去年妹が結婚して、これからは俺が親孝行しようと決めた矢先の急激な悪化だった。

『昨年、お前はいっぺんにいろいろ失くし過ぎた。気持ちは分かるけど、そのままじゃ自分自身までなくすぞ』

南の言葉が頭をよぎる。

―――分かってる。皆いつかは通る道だって。

それが、思っていたよりも少し早すぎただけ。

ようやく家にたどり着いて玄関へのアプローチに足をかけたとき、グラッと身体が傾いた。

「……あれ」

(だめだ、もう身体を保っていられない)

 俺は倒れ込む。幸いそこには母親が好きだったマーガレットのプランターが並んでいて、堅いタイルに思い切り身体を打ち付けることだけは免れた。

『どうしていつもあんたはこんなになるまで我慢するの!』

 母親の声が聴こえる。小学生の頃、俺は体調不良を隠して遊び回り、不意に倒れたことが何度かあった。そのたびこうして叱られたものだ。

(あれから二十年近く経っても、変わらないなんてな)

 結局人なんて、子どもの頃からそうそう変われるものでもないのかもしれない。

(―――これが、走馬灯のように、ってやつか……?)

今はもう生きているのが妹だけになってしまった家族や、友人たちの顔が次々と浮かんでは消えていく。

(母さん、ごめん、俺は間に合わなくて)

 せっかく無理をして医学部に行かせてもらったのに。

この一年というもの、自分はまるで、駄々をこねる小さな子どもみたいだったと思う。

毎日眠りにつくたびに、朝起きたら全部嘘だったらいいのにと願った。

去年死んだ母も、今ではかろうじてその深い声と手の温かさだけを覚えている俺が小学三年生の時に死んだ父も、子どもの俺も幼い妹も、この大きな家に皆いて。俺が朝起きて二階の自分の部屋から降りて「おはよう」と言うと、皆が振り向いて「おはよう」と言うのだ。

―――もう、そんなこと、あるわけないのに。

景色が回る。

ぐるぐる回る。

(俺はこのまま死ぬのかな……)

心配してくれる人たちの声にうなずきながら、本当のところ俺は何も分かっていなかった、と思う。こんなところで死んだりしたら、また妹を泣かせてしまう。母親が死んだとき、人はこれ以上涙を流せないだろうというくらいに泣いていたあの子を。

(ああ、でも、もう大丈夫か。あの子にはもう新しい家族があるのだから―――)

「大丈夫ですか、達樹さん!」

不意に、薄れていく意識の隅で、声が聞こえた―――気がした。

どこか分からない場所に浮かんでいるような感覚。

上も下もなく、暑さも寒さも感じない。

ただ何もない場所にぽっかりと浮かんでいる。

不意に、指の先からすぅっと意識が伸びていくような感覚に襲われた。自分が広がっていく。広がって、空間を包んでいく。

『―――じいちゃん、この木枯れてるの』

 不意に幼い声がした。

『ああ、こりゃあもうだめだ。今年はもう花が見られないな』

『去年はあんなに綺麗に咲いてたのに?』

『ああ。毎年少しずつ元気がなくなってきたとは思っていたが。わたしが身体を壊してここへ来られずにいた間に、根元が腐ってしまっていたんだな』

 祖父はそう言って残念そうに木の幹を叩く。そこは祖父の家の裏山で、ここまで来るには少々険しい山道を歩く必要があった。

『それにしても、もったいないことをした。樹齢三百年を越える桜の木なんて、なかなか無いのになあ』

『本当に何をしてももう駄目?』

 そう言うと、祖父は少し驚いたようにこちらを見た。

『お前はこの木を助けたいか』

『うん』

『やってみるか』

『うん!』

 うなずくと、祖父は嬉しそうにその固い手のひらで頭をなでてくれた。俺はあまり自分から何かをやってみたいと言う子どもではなかったから、珍しかったのだろう。

(―――そうだ、あの子どもは俺だ)

小学二年生の冬。

父の容体が悪化して、週末ごとに隣県の祖父の家に預けられていた時のこと。

それから次の春まで、俺はとにかく必死で桜の木の世話を焼いた。カイガラムシを払い、毛虫をつぶし、添え木を立て、肥料を撒いた。

今考えると、あの時の俺がなぜあんなにあの桜の木に夢中だったのか不思議だけれど。

とにかく俺はそれからの一年間、休みという休みをすべて使って一本の古い桜の木の世話をしたのだ。

「達樹の努力が実ったよ。今度の休みに見においで」

 その年の初夏、祖父からの電話で木を見に行くと、緑の若い芽が出ていた。

 そして奇跡的に花が咲いたと祖父から連絡が入ったのはその翌年の春先、父の四十九日も済んで周りが落ち着き始めたころだった。

手の先から伸びていく意識、それは枝となり、どこまでも伸びて広がって、無数の花をつけて揺れる。

(―――これは俺の記憶じゃない)

その証拠に、目線の先、瞳に満開の花をうつしてぽかんと口を開けて座り込んでいる幼い子ども。あれが俺だ。

 あの時の桜はまるで、この世のものとは思えないほどの美しさだった。

 見上げれば空一面がほのかに紅がかった無数の花に覆われて、まるでこの世に花と俺しか存在していないようだった。

(―――あの時、『あなたを待っていた』と誰かが言った)

 そう、俺は確かに聞いたのだ。

風がざあっと吹いたとき、俺の目には知らずに涙が溢れていて、傍らの祖父をとても驚かせたことを覚えている。

 俺は「桜が俺に話しかけた」と主張したけれど、母は笑うだけで取り合ってはくれなかった。唯一祖父だけが、「達樹は一生懸命世話をしたから、あるいはそういうこともあるかもしれないなあ」と言ってくれた。

そして花が終わった翌週、あの桜は枯死した。もう祖父がどう手を尽くしても駄目だった。夏休みになって俺が再び祖父の家を訪ねる頃には、枝も幹も見る影もなく朽ち果てていた。

(あなたの手は昭次郎の手と同じですよ。育み、生かす手です)

 どこか遠くから、透き通った声が言う。昭次郎とは俺の祖父の名だ。

(あなたに手入れをしてもらえて、この家の木々は幸せですね。こんなに丁寧に細やかに―――だからこんなにのびやかに美しくうたっていられるんです)

ひんやりした手が俺の手に触れている。

その指先から何か、とても優しく清らかなものが流れ込み、俺の中を巡っていく。それは心地よい音の集まりのように俺を包み込み、循環し、満たしていた。

ハッと目を開けた。見慣れた天井が目に入る。

「あっ、大丈夫ですか?」

 透き通った声がして、慌てたように手が離れた。俺の中に満ちていたうたが止んで、ひどく静かになる。

「……航也」

「良かった、心配したんです」

「―――なぜ」

「すみません、勝手に入りました」

そういう意味じゃない、と首を振る。「なぜ俺が倒れていることが分かったんだ?」と言おうとしたが、言葉は乾いた喉に引っかかってしまった。それでも航也は分かったようだった。

「いくつかのうたが急に大きくなって止まったからどうしたのかなって思って、見に来てみたんです。そうしたら達樹さんが倒れていて……僕は心臓が止まるかと思いました」

(ああ、花壇に倒れたせいか)

「きっと花が教えてくれたんです。達樹さんは慕われているんですよ」

 そう言って微笑む。

「呼び続けたらどうにか起きてくれて、僕が支えてここまで歩いたんです。救急車を呼びましょうかと言ったんですが、頑なに『要らない』と。解熱剤も自分で飲んだんです。覚えてないですか?」

「ああ……。今、何時かな」

「もう夜です。八時くらい……あ、僕は、うちの両親に、今日は友達と会うので遅くなるって言ってあるので、大丈夫ですから」

(あなたの手は昭次郎と同じですよ。生かす手です)

(この家の木々は幸せですね)

意識の隅に残っているいくつかの言葉の欠片、あの透き通った声の主は。

(ああ、また……香りが)

俺はもうそれを思い出していた。ごくごく繊細で、微かな、優しく清らかな花の香り。

(これは、あの桜の)

猫も長年生きれば化けるというのだから、三百年も生きた桜の木なら、あるいはとも思う。

こんなことを考えている時点で、俺はまだ相当熱があるのかもしれないけれど。

(笑われるかもしれないが―――熱に浮かされたせいにして)

「達樹さん、喉乾いてますよね? いま水を―――」

 航也はそう言って背を向ける。その華奢な背中に声をかけた。

「航也。お前はあの桜なのか」

我ながら突拍子もないことを言っている自覚があった。振り向いた航也の訝しげな顔と、「何言ってるんです?」という言葉を覚悟する。

しかし、航也はハッと振り向いた。大きな目をいっぱいに見張って俺を見る。ガラスの水差しを持つ手が震えていた。

「―――覚えていてくれたんですか」

 コップに水をついで俺に渡すと、航也はベッドの脇の椅子に座った。

「達樹さん、あなたが僕に会いに来てくれた日のこと、昨日のように覚えています。枝いっぱいに花をつけて揺らして見せたら、幼いあなたはもうそれはきらきらと笑ってくれて。とても、とても嬉しかった。あの後すぐに、僕は命を終えました。それから僕はあなたの笑顔だけを頼りにここへ来たんです。ここで生まれて、物心ついたころには、僕はもうそれを知っていました。でも、そんなことを言ってあなたを困らせてはいけないと思った。それがおかしなことだということは分かっていたので。遠くから見ているだけで良かったんです。言うつもりなんてなかった」

 そう言って、ふと目を伏せる。

「引っ越しが決まって……植物を霧の深い日に一つずつ運んだのは、願掛けでした。あなたがいつか僕を思い出してくれないかなって。矛盾していますよね。隠れながら、見つけられることを願っていたなんて」

 ふ、と自嘲気味に笑った頬に手を伸ばした。

「生まれ変わって、会いに来てくれたんだな」

 そう言うと、大きな瞳が揺れた。

「信じてくれるんですか? 本当に? こんな突拍子もない話を?」

俺が黙ってうなずくと、航也は、はらはらと花が落ちるように涙をこぼした。それはあまり綺麗で、胸が痛くなるような静かな涙だった。

「どこに引っ越すって?」

「遠いですよ」

「会いに行く」

「……僕も会いに来ます。ここへ」

 航也はそう言って泣き濡れた目で微笑む。

 その冷たい頬に触れた指先から、またあのうたが広がっていく。

 優しく清らかに俺を満たし、循環し、また航也へと戻っていく。

 あの耳鳴りは、もう聴こえなかった。

窓から花の香を含んだ風が吹き込む。

それは長かった冬の終わり。春の―――はじまり。

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